ココボロだとか好きだとか

大学院生による独り言と備忘録

雑記(2022.07.04)

ということで今月もやってきました。何か書いておきたいけれどそれだけで一本はかけないだろうなという話題を書くコーナー。(1回目)

いつも思うんですが、「()」の位置って多分「。」の前だよね。

 

1. The Osbick bird

 まずはご存じEdward Goreyの作品について。彼の絵本の中で一番好きなのは『敬虔な幼子』ですが、これはこれで一本記事書けそうなので今回は『オズビック鳥』についてです。

 先ほどAmazonで購入したばかりで手元に本はないですが、3年ほど前に訪れた「エドワード・ゴーリーの優雅な秘密」という企画展そのものや図録の記憶を頼りに概要をお話しします。

 いやに足の長いオズビック鳥が男の前に現れ、彼らは長年間仲良く暮らします。当然鳥と人間なので言葉を交わすことはできませんが、両者ともに楽しく充実した日々を過ごしたのでした。そして男が老衰し床に伏してもオズビック鳥は男のそばを離れず、看病をしていました。しかし、月日が経ち老人は亡くなってしまいます。一人になったオズビック鳥は男の墓の前からずっと動かず佇み続けました。数か月経ち、突然オズビック鳥は飛び立ち、そして二度と帰ってこなかったのです。

というのがお話の概要です。オズビック鳥。この鳥自体は実在せず、足が長いだけのよくわからない見た目ですが、デザインはどうでもよいのです(美術に対していう言葉ではありませんが)。主題は男と長年寄り添い、楽しく暮らしていた彼は、はたから見れば愛情や執着、信頼といった人間らしい感情を持ち合わせているように思われたということ。そして老人が死んだ後も墓の前から動かないその姿は、悲哀や慕情といった感情を人々に思わせたこと、そしてそれでいて、ある日急に飛び立ちそして二度と帰ってこないという、容易に心は変わり得るという事でしょうか。

 しかし、このお話から私が思うことは、"心持は容易に変わり得る"というもののみではありません。私の感じたもう一つのことは、感情の客観性についてです。

 お話が終わった後も、オズビック鳥にとって男の存在とは何だったのかもわかりません。私たちは他人の言動でもってその心を推察します。オズビック鳥と男とは言葉を交わせなかったので言はないにせよ、鳥の行動は人間の愛情や友情を思わせる者でした。男が死んだ後も墓の前から動かなかった鳥はその裏付けを強めています。

しかし、先ほども言ったように、鳥は本当に男を思っていたのでしょうか?ただ単に、その方が都合がよかっただけでは?愛情や友情とは?私達人間同士ですらその回答はは難しいものになるでしょう。このオズビック鳥のお話は、他人の言動から心情を推察する、私たちの考えそのものを問いただすようなお話ではないでしょうか。もちろん、心情は急変し得るという感想もよろしいのですが、なんとなくさみしい気がしていて、こんな文章を書いております。以上

 

2. 銀河鉄道の夜(produced by Kagaya)

 以前もお話ししたかは記憶にないですが、私の一番好きな映像作品の話。いや、『Mind Game』の方が好きかも、今回は関係ないけれど。

銀河鉄道の夜』は宮沢賢治の代表的な作品ですが、まあ好きかと言われても普通くらいのお話です。しかしながら、プラネタリウム作品である、Kagaya氏の『銀河鉄道の夜』は一番好きな作品です。

 この作品自体00年代に発表されたもう15以上前のモノですが、今の目で見ても非常にきれい。特にプラネタリウム特有のドーム状の天井に映し出される動画は、ただの映画とはけた違いの臨場感を醸し出します。音楽は若干物足りなさを感じるものの綺麗によくまとまっています。ナレーションやその他音声も少ないながらこだわりが感じられ、また、上映時間も非常に短く、銀河鉄道の夜すべての流れをカバーできておらず重要なシーンのみを描いたダイジェストの様な作品ですが、映像自体は驚くほどこだわりが詰まっており感動はひとしおです。

そしてこの作品、はるか昔のモノですので上映館は少ないのですが、気が付いたら東京で再上映が始まっていたのです。私が初めてこの作品を見たのは、東京の市、八王子のプラネタリウムですが、はるか昔に上映が終了しました。この館で4回は見たかな。そしてこれが終わった後、二年前くらいには埼玉の山奥(小川町)まで見に行きました。ちなみに、東京から最寄りの竹沢駅(もしくは東武竹沢駅)までは2時間くらい。しかも最寄り駅からは歩いて2,30分くらいの場所まで行ったのです。最寄り駅の駅舎はもちろん無人で、昔ながらの本棚に自由に閲覧できる本々が設置されていました。

それが何と今では都会中の都会である港区で鑑賞できます。この機会にぜひ見てもらいたいものです。

 

3. カラスは真っ白

 カラスは真っ白というバンドについて私は詳しくありません。ふと流れた『浮気DISCO』にドはまりし、アルバムを聴き始めました。そのアルバムは『バック・トゥ・ザ・フューチャー』。そしてラスト曲は『みずいろ』です。

 この時点でもうわかる人がいるかもしれません。そうこの曲、まるまんまCymbalsの『Show business』なんですよ。とにかくドラムスがそっくり。出だしや曲中の自由に動き回るスネア、あとはブリッジのベースなどなど沖井礼二節たっぷりです。

 別にカラスは真っ白を否定するためにこんなものを書いているのではなく、同じく渋谷系の趣味を持つものとして非常に面白いと思って書いているのです。当時、沖井礼二はだんまりで、活動なんてしていませんでした。数年前にようやくTweedeesとして活動し始めましたが、今もまた止まってます。彼らしいベース、彼らしいドラムスは結構中毒性があり、独特な表情だと思うのですが、カラスは真っ白によって沖井成分が補給できたのはよいことでしょう。

まだ、アルバム1枚しか聞いていませんが、徐々に流し聞いていきたいと思います。

 

4. そのほかの音楽

 だんだん面倒くさくなってきました。まずは諭吉佳作/men。彼女は2003年生まれの非常に若いシンガーソングライターです。私が彼女を知ったきっかけは、相対性理論→真部修一→タルトタタン→ヤマモトショウ→fish bowl→諭吉佳作/men という流れです。Youtubeの公式チャンネルではアルバムのリード曲である『ムーヴ』、そしてkabanaguとの共同作である『すなばピクニック』が特におすすめです。私自身、ヤマモトショウが好きなことからわかるようにエレクトロ・ポップが大好きで、諭吉佳作/menもドはまりしました。そしてもう一つ、でんぱ組.incに楽曲提供した『形而上学的、魔法』は曲と共に歌詞にもこだわりが感じられます。ライブverの彼女の歌唱は非常に素晴らしいので確認されたし。

 そのほかということでもう一人触れます。kabanagu。カバを殴る仕事として活動していた彼ですが、今ではkabanaguという名前で活動しています。知ったきっかけは上記の『すなばピクニック』から。今は『泳ぐ真似』というアルバムをずっとリピートしています。本当に聞き心地のいい音楽で、最近リリースされた『ほぼゆめ』も最高でした。

 特に、『泳ぐ真似』の『はじまり』や『連続体』、『ほぼゆめ』の『ばね』と『着くまで』は最高です。久しぶりに聞いていて熱くなるエレクトロポップでした。落ち着くような、心地いいエレクトロポップ(くるりのワールズエンド・スーパーノヴァとか)もいいですが、『着くまで』の様な切実さを感じる熱い曲も大好きなのです。

 

5. 服飾について

 私は服好きを自称しており、そこそこ金を使っておりますが、最近はまたマンネリとして日々が来ております。

 私の中でのスタンダードはジャケットにカーゴパンツ、ドレスシューズなんですが、夏になるともうどうしようもない。夏はジャケットの代わりにホワイトシャツに変更されるのですが、どうもテンションの挙がるモノがない。靴だってそれなりに買いあさったし、時計もそれなりに揃った。シャツだって20枚以上に増えて、カーゴパンツとデニムも飽和しつつある。

 今欲しいものと言えば、F-2パンツ(以前も持っていたが、サイズアウトのため一つ大きいものが欲しい)やリネンシャツ(これはいつでも欲しい)、スウェードストレートチップ(雨の日用のスタンダードなモノ)、King Seiko(デイデイト)、米袋のトートバック(beamsのやつかわいい)くらいだろうか。そろそろ安物の多買から良いものの選択買いへ移り変わる時期なのだろうか。そうなるともう学生の財布では仕方がなくなりつつある。

でも夏に着られるようなスーツも欲しいし、麻のジャケットも欲しいし本当は枯れていない気もするけれど、以前ほど情熱はなくなりつつある気がする。まあそんなところ。

 

6. カメラについて

 撮影会に全然言っていないMinolta 35 ModelⅡを購入して以来、10枚くらい撮影したが、35枚とりきることなく防湿庫で眠っている。時間ができたら撮影会に行きたい。とにかく行きたい。あとは露光計も欲しい。

 

だんだん長くなってきましたが、話したいことはこんなところ。気が向いたらそれぞれの項を増やして記事にしていきたい。なお、いつも気が向いたらと言っているけれど、だいたい機が向かない。

購入品紹介_スターリングシルバーの甲丸リング

リングを買った。

購入したリング

暑くなってくるとだんだんシルバーが欲しくなりますよね(圧力)。

 

本当は小ぶりの真珠がついたリングをしたいのだけれど、ポケットに片手を突っ込む系の私は飾り石を気にせずポケットに引っ掛けてぶっ壊しがちなので、気を使わないで済むプレーンな甲丸にしました。

何のデザインもなく、リング内周にS925の刻印だけ入っている本当にシンプルなリングです。

基本的にシンプルな恰好、ホワイトシャツにカーゴもしくはデニムパンツをしているので、あまりごちゃごちゃしたアクセサリは好みません。

 

そしてなんとこのリング、2,000円以下で購入しました。デザインの無いプレーンなリングなので、貴和製作所とかの手芸用品的な売り方がされていないかとサーフィンをしたところ、みんな大好きAmazonに売ってる売ってる。サージカルステンレス(316L)だと1,000円強で売っていてそっちにしようかとも悩んだんですが、純銀で2,000円ならさすがにこっち選びますよね(指示語の多用)。

 

昨晩購入手続きを済ませて、本日の午前に到着。本当に便利。まあ別に急いでないけれど。

外観

あのアマゾンによくある封筒にまるまんまこの箱が入ってポストに届きました。

箱はよくある感じのピッグスキン風の紙に銀色の箔押しをしてあるタイプです。この値段にしてはお金かかってそう。しっかりとロゴが中央に配置されていますし、ホワイトの印字ではなく銀箔押し。箱の底面の四辺は直角に落とすのではなく、真横から見ると台形に見えるように、45°で一度落としてありそれなりの箱に見える。ただし、紙はやや安っぽい模様。

商品全容

箱の中には化繊のマイクロメッシュ生地でできた巾着型の保存袋、銀磨きクロス(研磨剤が染み込んでいるかは不明)、乾燥剤、後はブランド紹介の小冊子が入っていました。先ほどから雑な写真ばっかり挙げている私が言うもんでもありませんが、冊子の写真のクオリティは低め。本屋さんとかガチャガチャで売ってそうな感じ。

 

とまあ、いろいろ文句を垂れ流していますが、めちゃくちゃ満足。2,000円でシルバーリングを買えるとは思っていませんでしたし、どうせ箱も保存袋も使わないので、外装がどんなクオリティだろうと関係ありません。

サイズ展開も結構豊富でマイサイズを選ぶことができ、そのうえサイズを上げても値段は変わらず。Amazonでリングを見ているとサイズ感が違うとのレビューが多いですが、私は平気でした。まあAmazonなら返品対応も多いので、割と適当に選んでもよさそう。知らんけど。

 

ということで、夏に向けてアクセサリーを購入したという感想でした。このブログも写真を使ったただの日記になりつつありますが、初秋まではお待ちください。やや忙しいので。暇ができたらまた撮影会に行ったり和訳したりも増やしたいとは思っています。

 

今回の表紙写真がいまいちなのは仕様です。気が向いたら取り直したい。

非日常の始まりについての雑考

誰の言葉かは忘れたが、死には3種類あるのだという

 

・1人称の死 

・2人称の死

・3人称の死

 

1人称の死は自分自身の死である。エピクロスに言わしめれば、「生きている間に死は訪れず、死が訪れたときにはすでに感覚がなくなっている」ため、死を恐怖する必要はないと。

2人称の死は身近な人間の死である。おそらく人間が最も恐るるべきはこの死であろう。親、兄弟姉妹、祖父母、親戚、友人、同僚、上げればきりがないかもしれないが、一定のつながりがある人間の死を聞いたとき、ヒトは死を身近に感じ恐怖を思う。

3人称の死は繋がりの無い人間の死である。交通事故や殺人のニュースや第三世界の子どもたち、今で言えばCOVID-19の死亡者数も3人称の死である。私達はこの3人称の死を"数字"としてしか捉えることができていない。

 

3人称の死。二年前まではほとんど意識されていなかった。というよりも、こと現在において3人称の死が強調されることになった。2人称と3人称とが近づいたのだろうか。それとも3人称の死に敏感になったのか、はたまた一つの恐怖に対する思いが"自国民"同士の共通意識を強めたのだろうか。

ヒトは最悪死ぬ。道を歩いていれば交通事故で最悪死ぬし、今となってはそれにCOVID-19による影響が追加された、ただそれだけの事。

内閣府(新型コロナウイルス(COVID-19)感染症の対応について|内閣官房新型コロナウイルス感染症対策推進室)によれば2021年8月28日時点での累積死亡者は15,790人である。

f:id:taro0219:20210828132841p:plain

累積死亡者数

いつから数え始めたものかイマイチわからなかったが、オープンデータ(https://opendata.corona.go.jp/api/Covid19JapanNdeaths)によれば2020年4月21日の277人が最初のデータであろうか。

大雑把な計算であるが、2020.4.21から2021.8.28まではおおよそ485日程度、年に直せば1.33年。その間の死亡者が15,790人であるから、年間あたりに直すと約12,284人。明らかに交通事故死亡者数を超えている。COVID-19流行当初交通事故と比較し過剰に恐れていると断じていたが、今となっては誤りだった。

 

一方NIID(国立感染症研究所)の出した、2020年11月までの超過死亡、過小死亡の算出では、過小死亡数が超過死亡を上回る(気持ち悪い日本語)結果であった。

(日本の超過死亡数・過少死亡数 | exdeaths-japan.org)

果たしてどう見ればいいのだろうか。考えたくない。思考というの娯楽の一種であると同時に、多大なエネルギーを喰う本能的に避けるべき行動である。目の前に簡単な結論を持ってく来てくれる親鳥がいたらどれほど楽か。

数字を見れば、新型感染症流行語の日本において年間の死者が減少したのだから、施策は成功だったのかもしれない。しかし、体感で言えば、例年では死んでいたような人間が死なず、例年では死ななかったような人間が死んでしまったようにも思われる。

これは、毎年熱中症などで死んでいたような老人が外に出なくなったため死ななかったり、インフルエンザ程度では死ななかった40代などがCOVID-19に罹って死んでしまったことなども考えられるだろう。だから、数が少ないから影響がなかったなんてことはあり得ない。感染症流行による影響は負の側面もあったが、死者数でいえば正の影響(ポジティブな良い影響=年間死者数の減少)をも生み出したのだろう。しかし、いずれにせよ数字だけでは何も語れない。数字に意味を持たせるのが統計学であるのだから。

 

 昨日受け取った学会誌に、科学リテラシーは情報の発信者のみならず受け取りにもないといけないなどと書いてあったが、至極あたりまえのことであろう。アラビア語聖典を読んだところでアラビア語リテラシーのない私には何一つわかりやしないのだから。それに加えて仮に文字を追うことができても単語が分からなければ仕方ない。もっと言えば、常識がなければ慣用句や本来の意図を読み飛ばすことになってしまうのだ。アラビア文化に対するリテラシーもまた必要なのだ。

閑話休題

 

なんか小難しい話になってきたが、本題はそこではない。

 

「これまで数字でしかなかった三人称の死がなぜ身近になったのか」

 

国民に死者が出たからであろうか。しかし、交通事故の死者だって今までも国民であった。その数が甚大だからであろうか?ではなぜがんに対する恐怖はそれほど過剰じゃないのか?若者には関係ないから?それは交通事故で否定できるだろう。交通事故は老若男女問わず一瞬にしてその生命を脅かすほどの影響を与えるのだから。

では、情報の氾濫が二人称と三人称を近づけたのだろうか。いや、交通事故に対する情報だってかねてからずっと氾濫していた。街に出れば「交通安全標語」なる誰も気にも留めないような下らない文章を見ないことはないし、今では車に乗ればそのまま喋り出し「安全運転を心がけましょう」なんておせっかいを言われるのだから。いわれなくてもやるっての。

 

明確な理由は私には考えつかないが、その他のモノとCOVID-19とで異なるものがある。

それはCOVID-19は多くの人の習慣を変化させということだ。交通事故の死者がニュースで取り沙汰されたとしても、我々は習慣を変化させない。車の運転者が少々意識を変えることはあったとしても、それが毎日の習慣として残るかはやや疑問が残る。がんの死亡者や様々な疾病の患者が話題となったとしても、習慣は変わらない。生活習慣病なる言葉が定着して予防医療が発達した昨今であれど、多くの人間は実際に異常値や疾病が見つかるまで行動を行わない。

しかし、COVID-19は違った。多くの人間が、身の回りに感染症があふれるその前から自らの習慣を変えた。外出時にはマスクを着け、店に入るたびに検温・消毒を行い、帰宅すればすぐにマスクを捨て、手を洗い、うがいをする。こと2021年においてこれらの行動を行わない日本人の方が極端に少ないだろう。

「聞きたいのはそんなことじゃない、なぜ習慣が変わってしまったのか。COVID-19はなぜそれほどの影響力をもって受け入れられたのだ」と言われそうだが、あいにく私は答えを持っていない。

 

ああ、今思えばそもそもこの疑問がナンセンスだったのかもしれない。なぜ人間は八本足かなんて疑問に意味なんてないのだ。だって前提が成り立っていないし、成り立つ見込みもないから。そもそも三人称の死が近づいたから人々は怖気づいたのではなく、別の理由で、たとえば罹患により半月ほど自由を奪われてしまうから、人々は習慣を変化させたのかもしれない。

この文章は2021年8月におおよそ書き終え、そのまま、「聞きたいのはそんなことじゃない、なぜ習慣が変わってしまったのか。COVID-19はなぜそれほどの影響力をもって受け入れられたのだ」に対する回答が得られないがためにずっと下書きとされていたものに、一節付け加えただけの文章だ。

文章作成からだいぶ日が経ったが未だに何も見えてこない。多くの学者はこのパンデミックの始まりを何と見るのだろうか。

非日常の終わりを夢見るためには、その始まりを問いたださないといけないのかしらと思う今日この頃である。

Fantastic Planetを見て

Fantastic Planetを見た。ただそれだけ。

きっかけは『禁断の惑星』。もちろんサブカルくそ人間なので、それ以前からもかの映画の噂は聞いておりましたが、音声はフランス語、英語字幕とのことで嫌厭していました。が、そろそろ頃合いと思い重い腰を上げた次第です。

 

私の雀の涙ばかりの英語力と拙い国語力によって映画のあらすじをお伝えすると

 

Draag族とOms族という二つの種族が住む惑星Igamを舞台として進む物語。

その惑星はDragg族が全くを支配しているといってよく、彼らは高度な文明を築き上げ、一日の多くを瞑想に費やして生活しています。一方でOms族はDraag族の足の小指にも満たないくらい小さく、誰がどう見てもその力の差は歴然です。Draag族はOms族のことをペットとして飼ったり、あるいはいたずら半分で殺したりしていました。

しかし、Draag族も一応Oms族の知性に対して脅威を感じており、絶滅させてしまおうと主張する者もいれば、これまで通り飼ったりすればいいと考える者もいて、日々開催される議会(議員が議論を行い、民衆はその様子をアリーナから眺める民主的(かはわかりませんがそう思われるよう)な形式)ではなかなか進展は見られません。

そんな中主人公であるOms族の男の子は、Draag族の少女であるTiwaに拾われ、Terrという名前を付けられ飼育され始めます。この少女はOms族に対して穏便な考えを持つSinh議員の娘であったため、Terrは運がよかったといっていいでしょう。

TerrはTiwaの元でどんどん成長していきます。Oms族にとっての一年はDraag族の一週間と同じ長さであり、男の子であった彼はいつしか少年になっていました。

Draag族はヘッドフォンの形状をした学習器具で勉強をするのですが、この器具は音を流すと同時に、具体的な情景 (イメージ、画像) までもを装着者に見せることが可能で、しかも、TiwaのそばにいたTerrにもその学習が可能でありました。こうして、普通のOms達は理解できないDraagの科学技術や文化をTerrは知ることができたのです。

様々な学習をTiwaと共に重ね、青年となったTerrは隙を見てそのヘッドフォンを盗み逃げだします。彼には教育を受けることができるヘッドフォンが何よりも大切に思われたのです。そうして逃げているうちにTerrは野生に生きるOms族の女性に救われ、公園にある彼女の集落へと案内されます。そこは原始的な集落であり、Draag族にもともと飼育されていた、そのうえDraag族の文化や技術を知るTerrは信頼してもらえません。何とか神託的な決闘により滞在を認められたTerrは集落の一員として暮らしていき、彼の知識が集落を発展へと導くのです。

平穏が続き野生の生活にも慣れてきたある日、Draag族はその公園にいるOms族を絶滅させる計画を開始します。毒ガスを撒かれ散々追い回されたOms族は何とか公園から逃げ出します。そして側溝に隠れ今後どうしようかと考えていた彼らは、道を歩く二人のDraagに出会ってしまい、襲われてしまいます。しかし、鬱憤のたまっていたOms達はそのうちの一人を集団で倒し、殺してしまうのです。

このDraag一人の殺害は大きな議論を呼び、公園のみならずOms族全体の絶滅計画を開始するきっかけとなってしまいました。

一方、公園から逃げ出したOms達は安全な場所を求めひたすら歩き、Draag族のゴミ捨て場に集落を作り、また、TerrがもたらしたDraagの文化や科学技術を用いてDraagに負けないくらいの高度な社会を形成するのです。

そんな中、またOms絶滅計画が起こります (というより、Omsにとって高度な文化を作り上げた数年間は、Draagにとっては先の殺人をきっかけに計画された絶滅計画の準備を行う期間であり、その準備がようやく終わり、いよいよ計画が実施に移ったのでしょう) 。その頃、Oms達はその発達した技術でロケットを製作しており、ようやく二台の試作品ができたところでした。まだ完成ではないものの、絶滅計画でみんな死んでしまたら意味がありません。Omsの最後の希望を乗せたロケットはIgamのすぐ隣の星にあるFantastic planet を目指し飛んでいくのです。

そこには大きな白い彫刻がありました。Omsの首から下と全く同じ形をした彫刻がいくつも並んでいるのです。しかしそのすべてに顔はありません。Oms達が近づいて確認していると、見たことのある赤い球体が空から飛来し、その彫刻の首にくっつき彫刻が動き出したのです。

その赤い球体とはまさに、Draag達が瞑想する際に現れる球体であったのです。彼らはFantastic planetにある彫刻の体で踊り、愛を育みます。この瞑想を行う事こそがDraag族の生活の本質でした。Oms族たちはその光景を見るや否や、動き出した彫刻に踏み潰されないようロケットに戻り、そしてロケットに搭載されたビームによって、彫刻を破壊して回りました。これにより、今までは手も足も出なかったDraag達にOmsは反旗をいる返すことができたのです。

Draag族たちはこの状況に慌てふためき、Draag議会は荒れ果ててしまいます。そんな中Tiwaの父親であるSinh議員は「2種族の戦いは破壊を生むのみで荒れ果ててしまう、別の道を探そう」と発言し、議論が終了します。

しばらくの経過後、Draag族はOms族のために新たな星を作り出します。そしてその星はTerra(地球)と名付けられ、2種族間の争いは終わったのです。

 

って流れです。2000文字くらいかかりましたね。

 

 

どうでしょう。伝わりましたでしょうか。今回は敢えてその種族の見た目や文化には触れていません。見ていただければわかると思いますが、触れないことも重要な気がしているのです。

 

さて、このFantastic Planetですが、結構面白かったです。と言っても1時間程度の短い映画ですが、不安になる作画と音楽、独特な動きをするアニメーションや特異な世界観がまあサブカル好みな人間には刺さるのなんの。あとはお話もそれなりに面白かったです。単純な私なんかは、ロケットが飛んで逃げた星(Fantastic Planet)が地球になる落ちかよ......とか思いながら見ていましたが、そう一筋縄では終わらない。もともと、Terrが映画の前半で「彼ら(Draag族)はなぜか生活のほとんどの時間をMeditation(瞑想)に費やす」と語っているのです。そしてその発言を回収する形でFantastic planetでのDraag族の行動が描かれるという形ですね。

また、Terrという名前も明らかなる伏線でしょう。そもそも種族の名前であるOmsって言う音も男性を想起させますし、TerrからTerraになるのもまあ想像がつきます。

後はあらすじでは触れませんでしたが、Oms族は人間の見た目をしており、Draag族は人とかけ離れた奇妙な見た目をしています。普通のお話とはまったくの逆でしょう。どう考えても、高度な技術により星を支配する種族こそが人類で、抑圧される小動物とかが奇妙な生き物として描かれるのが普通の発想です。しかし逆なのです。これにより、この映画を見る私達は普段の行動を客観的にとらえる機会が与えられるのです。

 

アニメーションの動きやTiwaのセリフ、議会の形状やOms族の集落、その他の生き物、惑星の環境、ヘッドフォンなどなど語りたいことはまだまだありますが、もう夜なので寝ます。暇なときに書き進めていきます。

 

先日、日本語字幕のものをAmazonでレンタルし見直しましたが、内容の取り違えはなかったようです。安心。日本語字幕で見るとやはり分かりやすく再発見がありましたので少し残しておきます。

公園でのoms族絶滅計画の際に魔術師の「知識を奪った報いだ」との発言。キリスト教圏であればより意味の強い発言であるように思われます。Terrがヘッドフォンを持ち出してDraag族の技術をOms族にもたらしたこと、そしてその後に絶滅計画との文字が壁に書かれたためにOms族の魔術師が放った発言です。

私達からは明らかですが、この二つの出来事に因果関係はありません。実際、Draag議会では一季ごとに2回駆除を実施しているが十分ではないとの発言があります。oms族の中にも、「かつてDraag族に協力したことがあったが、じっと隠れていれば大丈夫だ」のような発言がありました。このことからも、Terrが技術をもたらしたことと絶滅計画は関係なく、ただの定例行事だったとわかるでしょう。私達からすれば。

しかし、oms族から見れば、確かにそれが報いに見えたことでしょう。実際我々人類も、本来関係ないはずの出来事の間に因果関係を見出してしまう嫌いがあります。

後は有名な聖書の中のお話、こちらは因果関係がはっきりしていますが、知識を得たから楽園を追い出されてしまうお話。そう、知識の果実を食べてしまったアダムとイヴは楽園を追い出されたという話ですね。このFantastic Planetの場合は楽園から追い出されたというよりかは、まあかろうじて住むことができていた居住地からの撤退を余儀なくされた程度ですから、楽園と比べるとショックは小さいかもしれませんが、およそ似通った構図であると思います。また、居住地から追放された後には逆襲を為し遂げるという点はおおよそ神への反逆ととらえてもいいでしょう。

そうして最後にはもともとの神の様な存在と共生する道を作り出し、まったく新しい星すらを作らせてしまうという非常に興味深いエンドというかなんというか。あまり長くない映画にしては示唆に富んでおり、あと2回くらいは見ておこうと思います。

 

lesson / Awesome City Club 和訳

本日は、lesson / Awesome City Club の和訳です。

lesson、ACCの中でも群を抜いて好きな曲の一つで、前期、特に初期ACCの作品の中では非常に印象的です。

それでは以下和訳

 

 

昨晩の本当のことを教えて?

僕がそう言うと君は泣き出してしまった ※1

僕らはまた、これまでみたいにやり直せるのかな?

いつも通り振舞おうとしたんだ、あの素晴らしい日々のように...... ※2

恋に落ちるなんてことはきっと、自分自身について深く考えるっていう事なんだろうな

誰も僕に"愛とは何だ"なんて教えてくれないけど、君は愛に間違いなかった ※3

 

時間が、分かち合ったはずの言葉や微笑みを消していって

テープみたいに巻き戻したりはできないんだね ※4

君と一緒にいた馬鹿げた時間

僕にとって、夜に溶けていくことだけが唯一の逃避法なんだ ※5

そうすれば、もう僕は君と"心"を分かち合うことはなくなって、君と一緒にいることもなくなるでしょう

 

けど、年老いれば、こんな日々はただの"おままごと"に、 ※6

悲しみに他ならないってわかるだろう

星明りの下で、僕らは一緒にいようとしたけど、そんなことできなかったね

僕はもう感情も、言うべき言葉もなくしてしまったんだ

 

ああ、夜も昼も、愛おしい君のことを考えているよ

夜も昼も、君が独りぼっちじゃないようにって願ってる

夜も昼も、この気持ちは何なのかって考えてる

ああこれが愛、この心に張り付くものが愛なんだろう ※7

 

 

 

※1 そもそもこの一文目を言ったのは誰なのか、「"君"が言って"君"が泣いた」のかもしれませんし「"僕"が言って君が泣いた」のかもしれません。後半の歌詞を鑑みるにおそらく後者であると解釈しました。

 

※2 「I try to pritend like in old day, My good old day」の訳。直訳は「過去の日々のように、振舞おうとした、私の良き過去。」ですが、まあ日本語として自然になる?ように翻訳

 

※3 "た"が太字の理由は「but you were the one」の文章があるからです。「君はその一つだった」ってのが直訳で、「愛が何かはわからないけれど、君は愛の一つの体現であった」との意を込めて訳しています。

 

※4 テープみたいに巻き戻しはできない。って言葉、今を時めくナウなヤングには伝わらない表現かもしれませんが、かつて"ビデオ"と呼ばれていたVHSは、テープにデータが記録されており、巻物のように片方の筒から伸ばして映しながら、もう片方の筒に巻きなおしながら再生していました。そのため一度見終わったら巻き戻さないといけないのです。「日々をビデオに例えることはできないね」→「過ぎた日々は戻ってこない」という意味です。

 

※5 個人的に一番難しい一文です。「To me, falling into night is the only way I can deny」の訳。文章としては「私にとって、夜に落ちていくことが唯一の方法、拒絶するための」って感じですね。まあ、「君から逃れる(物理的ではなく、精神的に君のことを忘れる)ためには夜に落ちるしかない」って感じでしょうか。

 

※6 年老いれば、というのは「but, when eyes are turn to gray」の訳です。「目が灰色になるとき」なんてないと思いますが、まあ年老いたの比喩かなあと感じたのでその通り訳しています。

 

※7 この曲の最も印象的な一文ですね。「It's love, it's stak to mind」。「これが愛、この心に張り付くものこそが愛なんだ」という一文です。

 

以上

 

 

この曲はもう7年?8年?も前の曲ですが、ACCの中で群を抜いて好きな曲の一つです。一番好きなのは、月並みですが『青春の胸騒ぎ』でしょうか。今でもACCは好きですが、「TORSO」と「Geow apart」が区切りでかなり曲調が変わっていると思います。個人的には5人体制の前期ACCも、最近の3人でのACCもそれぞれ好きで、前期の渋谷系、センチメンタルな曲調。後期のPOP寄りの曲調もどちらも捨てがたいと感じています。

 

しかし歌詞でいうとマツザカタクミさんの頃の方が好みかもしれません。lessonもタクミさん作詞の曲ですが、この感傷的な詩はあまりアタギさんには見られないように思います。

特にサビ。サビの癖に繰り返しで単調な風ですが、その分歌詞が際立ちます。

ああ、夜も昼も、愛おしい君のことを考えているよ

夜も昼も、君が独りぼっちじゃないようにって願ってる

夜も昼も、この気持ちは何なのかって考えてる

ああこれが愛、この心に張り付くものが愛なんだろう

この曲は、浮気された"僕"の心境を歌っていると解釈していますが、浮気されてもなお、"君"を愛おしく思わずにはいられない。感情を失ってしまうほど悲しいのにもかかわらず、愛している君の幸いを祈りながら、自分自身の心境を整理するこの切なさ。そして"愛とは何か"というこの曲のテーマに回答を見出すのです。

「この心に張り付くものこそが愛なのだろう」

 

あなたにとって愛とは何でしょうか。といっても、これは難しい質問で「私にとって愛とは何か」という問いに答えることはできないですね。しかし、よくよく考えてみると、タクミさんが見出した「心に張り付くこの気持ちこそが愛」というのは共感できるかもしれません。

私にとっての恋とは能動的なものではなく、常に受動的なものでありました。これは別に恋愛に対して消極的という意味ではなく、気が付いたら恋に落ちていた。好きになろうと思ったのではなく、ふとした言葉やしぐさに惹かれ、いつの間にか恋していた。という意味です。

おそらく多くの人がそうでしょう。使い古された表現ですが、「恋に恋する」なんて状態は本来好ましくなく、「好きになろうとして好きになる」なんて意識的な恋は避けられるべきで、無意識的なモノこそが恋なのでしょう。まあ「恋する」よりも「恋に落ちる」ってことですね。

 

そしてだからこそ、始まりが受動的であったからこそ、終わりを能動的にすることが難しいと感じております。

無意識的に恋に落ちてしまったからこそ、意識的に恋から脱することはできない。その終わりも無意識的にもたらされるべきではないのか。という思いが私にはあります。

なんだかややこしいですが、つまるところ、「心に引っ付いてしまったこの感情こそ愛であり、はがそうと思っても引きはがすことは難しい」という事なのだと思います。何とも自分自身の感情についてやけに他人行儀な印象もなくはないですが、こんな気持ちで毎日生きております。恋することを願ったことはありませんが、好い人と恋に落ちることをいくら願ったかしら。こんな考え自体野暮なのかもしれません。

----------------------------------------------------------------

追記

「Lesson」が収録されているアルバム『WESOME CITY TRACKS』では「P」という曲が続きます。そのサビでは、

uh愛なんて 瞬間の誤解よ
uh愛なんて いろいろいろ
uh愛なんて勇敢な遊びよ
uh I like it. 好きよ! 好きよ! 好きよ!

こんな歌詞が続きます。「Leasons」ではあれだけしっとりと語っていた愛について、"瞬間の誤解"や"勇敢な遊び"なんて言葉で片付けてしまう、しかしそれでも"I like it"という言葉が続くところに一筋縄ではいかない人間味、いい意味で泥臭さ、人間讃歌を感じてしまうのです。

----------------------------------------------------------------

 

あなたにとって恋愛とは何でしょうか。一瞬のセンチメンタルに興じることも悪くはないですが、少し思慮を巡らせることもたまにはいいのかもしれません。

最近好きな曲(2022年3月)

最近好きになった曲

 

『sad number』 Laura day romance

三月中旬くらいだと思うけれどLaura day romanceにハマった。

きっかけはLIGHTARS。YoutubeMusicの再生でアルバムが一枚終わった後に、おすすめで出てきたのがローラだった。なかでもsad numberがお気に入りで、何度もリピートしている。

PVの雰囲気やヴォーカルの花月さんの雰囲気がどこかNoBuses、近藤さんに似ていると思うのは私だけだろうか。まずは、サビ入り、「~連れ去ってしまえば、答え合わせさえ~」とサビ後半への入り「~例えばの話なら、また意味のないこと~」の譜割。「しまえば」の"ば"と「話なら」の"ら"はどちらも小節の一分目に来ており、そのためか流れるようなつながりが生れており心地よい。

Bメロの繰り返しや、2番で鳴くギータフレーズ、曲終盤にリタルダントをかけて後奏をせずに終わる構成も独特で良い。特に曲の締め部分は東京事変の『閃光少女』を初めて聞いた時と同じような衝撃を受けた。事変の場合は後奏が長いといった違いがあるが、こんなキラーチューン(閃光少女もsad numberどちらもよくできたフレーズだと思っている)を考えついておいてどちらも三分程度の比較的短い部類に入るような長さに収めている潔さが、非常に素晴らしい。私のような凡人ならもっとこんな名曲を思いついたのなら長引かせて歌いまくるのに。なんていうと閃光少女談議になってしまうのでこのくらいにしておくが、曲についてはそんな感じ。

歌詞についてとやかく言うのは野暮だと思っているのだが、

別れ際もしくは分かれた直後くらいの状況で、"何か別の方法もあったかもしれない"と過ぎた日々を愛おしく想いつつも、別れるという決断自体には後悔していない、といった雰囲気が感じられる。私的にはくよくよした歌詞はそれほど好みではなく、凛とした強い思いを歌ってくれる方が好みに近い。

あとは、時の流れを示す言葉が非常に詩的であると感じる。特にBメロは時の経過の詞が主になっているが「夜行バスは行き先の名前を隠して、約束通り過ぎていく」「春も連れ去ってしまえば」、「眠れないベッドの上寝返りを打って」、「星が瞬きする間に」、「季節運ぶぬるい風」といった模様だ。これらの日常を歌った時の経過を思わせる歌詞が、夜と昼とを行き来しつつ、進展していくことは哀愁を感じさせる要因となっているのではないだろうか。

 

 

『挽肉』 HAZE

もともと大森靖子が好きでZOCができた時には「ついに彼女は自分で歌う以外にプロデュースをするのか」などとうれしく思っていたら、彼女自身もアイドルになっているし、いつの間にか人は辞めていくしで久しぶりに彼女の狂気性を思い出させられた。

かてぃ氏(私が"ちゃん"と呼ぶのもなんだかなあと思う上に"さん"って感じでもない、そもそも芸名の名前の部分に氏をつけるなというのもまあわかってはいる)が脱退したときは本当に衝撃で、あとはカレン氏が辞めるか辞めないかによって存続が決まりそうだなあと思っている。ZOCについてはこんな感じ。

HAZEはかてぃがZOC脱退後に結成した4ピースのガールズバンドであり、現在はYoutubeに3曲のMVが上がっている。特に気に入っているのが挽肉だ。

少しけだるそうなかてぃの歌声に、Aメロで不穏そうなギターリフを続けつつ、ドラム、ベースと続々リズム隊が入りながら曲を進めていく。サビ前に急に落ち着いたと思ったらいきなりポップな曲調に変わり、しかもPVでは誰よりもインパクトの強いキーボードが、誰よりもダルそうに片手でキーボードをたたいている。この雰囲気が好きなのだ。想定していない曲の構成を"裏切られた"というのは非常に使い勝手のいい言葉だと思うが、まさにHAZEのサビ入りには裏切られた。ほかの曲だってそれなりに聞いているが、挽肉の遊びの効いた感じが一番である。

 

 

『√-1』 日食なつこ

日食なつこと言えば水流のロック。かくいう私も彼女を知ったきっかけは水流のロックであるが、まあ曲を好いても追っかけてほかの曲を聴くほどではなかった。当時はそもそもあまりピアノに対して情熱を感じたことがなかったからなのかもしれない。ただし倉橋ヨエコを除く。

ルートマイナスイチと読み下すタイトルだと思うがこの曲がおすすめにでてきたのは、おそらくHiromiのジャズピアノを聞いていたからだろう。彼女が私のピアノに対する感受性を変容させてくれたのは間違いないと思う。閑話休題

とにかく『√-1』の魅力は先ほどの挽肉と同様、裏切りの連続である点だ。創造とは常識からの脱却に本質があるのかもしれないと最近考えつつあるが、『√-1』ほどその脱却を思わせる曲にはであったことがないと思う。前奏からAメロへの入りも意味不明だし、Aメロの繰り返しに入るブリッジもわけがわからない。サビ入りは滑らかな割に、それまでとは全く異なるグルーブ感で進みだし、サビの終わりからAメロへの入り直しがまた唐突でいい。二番サビ以降の追い込みも続々来るし、ラスサビ前のヴォーカルオンリーになる部分も心地いい。とにかく常に裏切り続けられることを楽しめる。

PVもそれなりによくできていると思うが、一つだけ。ラスサビ直前からの動きのあるカメラワークが何とも言えないダサさを醸し出している。それ以外は文句がないのだが、赤と青の光が斜めに伸びつつ、8年前くらいのドラマに使われてそうな変に躍動感のあるカメラの動き、カットの入り方だけが気に食わない。まあそんな感じ。

 

 

『Ice Cream』 Battles

まずは何も言わずPVを見てほしい。とにかく見てほしい。見ればわかる。

この出だしのやけに澄んだ音をしたギターリフにカットを多用した薄気味悪い映像、男達の音吐。 アッチェレランドする映像と音、目がちかちかする色遣いのストライプを背景にようやくバンドメンバーが登場する。

その間もずっと変なギターリフが繰り返し、意味の薄い歌詞と一緒にグルーブ感を作り出している。この曲のハマるところはずっと気持ち悪さが継続している点にあると思っている。ギターのリフやヴォーカルの歌い方、リズム隊や映像それぞれ単体では特段気持ち悪さはない(映像は場所にもよるが)。しかしそれらが合わさることによってずっと胃がむかむかするような、吐く直前のような気持ち悪さが一曲終わるまでずっと継続する。

私はこの曲を形容するだけの言葉を持たないし、何がどうなってこんな曲になっているのか理論立てて説明するだけの何かを持ち合わせていないが、とにかく好きだ。

この気持ち悪さを表現する術を誰か教えてくれ。現代音楽というととにかくぶつかっていたり(馬鹿にしているわけではなく、私はJhon mackyが特に好き)すると思うのだが、そういうわけではなく現代芸術的な何か、を感じる曲は珍しい気がする。

 

 

既に力尽きかけており、本当は他にもpeanut buttersの『めっちゃポップ』やローラの『walz』(そもそも三拍子の曲が結構好みなのでもともとワルツが好き、だからこそ曲名ワルツは辞めてくれって思うけど)、Rollyの『あなたに夢中』(これにハマるのはもう何度目か、キャンディーズのカヴァー)、Nobusesの『Rubbish:)』、tofubeatsと中村佳穂の『REFLECTION』などなど、まだまだ語るべき曲は多いのだが、今回はここらでおしまいにしたい。

 

セブンイレブンのエコバッグ購入

f:id:taro0219:20220313142727j:plain

畳んだエコバッグ

セブンイレブンのレジ袋風エコバックを購入しました。

前から欲しかったやつですが、2月の再販時は当月の出費がそれなりに多かったので、3月まで待とうと思ったらいつも間にか売り切れており、次の再販は必ず買おうと心に決めておりました。

確か一昨日だと思いますが、思い出してセブンネットをのぞいてみると2次生産分の再販が為されており、即購入。

f:id:taro0219:20220313143546j:plain

開いたエコバッグ

本当にレジ袋の形をしています。

白い方は36cm×29.5cm(長辺は持ち手16cmを含まず)、マチは8cm×2

茶色い方は33cm×27cm(長辺は持ち手12cmを含まず)、マチは11cm×2

 

f:id:taro0219:20220313144303j:plain

デザイン1

f:id:taro0219:20220313144342j:plain

デザイン2

f:id:taro0219:20220313144435j:plain

白い袋のサイズ書き

f:id:taro0219:20220313144513j:plain

茶色い袋のサイズ書き

畳んだ時のサイズは白が13×13、茶は11.5×11.5です。

 

ちなみに値段は2つで1,980円、送料が500円するんですが、セブンイレブンの店頭受け取りを選べば送料はかかりません。

結構高いですね。レジ袋は大体一枚3円くらいしますので、1,980円は660枚分です。

 

なんでこんなの買ったかっていうと、まあ日常使い用です。

基本的に私は、外出時にごみ袋代わりにレジ袋を買うので、エコバッグを使うことはほとんどないんですが、ちょっとした外出時などに、これ以上良い鞄はないのです。

デザインがコンビニのエコバッグなのでどんな服装にでも合います。

というよりどんな服装にも合わないからこそ、いつでも使えるって感じです。先日記事にした、マークニューソンの紙コップをモチーフにした白磁カップも一緒ですが、とにかくこういうものが好きなのです。本来安いモノのデザインをわざわざお金をかけてしっかりとした製品にするところが、物質主義の裏返しというか面白いアプローチですよね。

 

まあまあしっかりとした出費なので、ちゃんと活用していきたいと思います。