ココボロだとか好きだとか

大学生による趣味の開拓と備忘録

非日常の始まりについての雑考

誰の言葉かは忘れたが、死には3種類あるのだという

 

・1人称の死 

・2人称の死

・3人称の死

 

1人称の死は自分自身の死である。エピクロスに言わしめれば、「生きている間に死は訪れず、死が訪れたときにはすでに感覚がなくなっている」ため、死を恐怖する必要はないと。

2人称の死は身近な人間の死である。おそらく人間が最も恐るるべきはこの死であろう。親、兄弟姉妹、祖父母、親戚、友人、同僚、上げればきりがないかもしれないが、一定のつながりがある人間の死を聞いたとき、ヒトは死を身近に感じ恐怖を思う。

3人称の死は繋がりの無い人間の死である。交通事故や殺人のニュースや第三世界の子どもたち、今で言えばCOVID-19の死亡者数も3人称の死である。私達はこの3人称の死を"数字"としてしか捉えることができていない。

 

3人称の死。二年前まではほとんど意識されていなかった。というよりも、こと現在において3人称の死が強調されることになった。2人称と3人称とが近づいたのだろうか。それとも3人称の死に敏感になったのか、はたまた一つの恐怖に対する思いが"自国民"同士の共通意識を強めたのだろうか。

ヒトは最悪死ぬ。道を歩いていれば交通事故で最悪死ぬし、今となってはそれにCOVID-19による影響が追加された、ただそれだけの事。

内閣府(新型コロナウイルス(COVID-19)感染症の対応について|内閣官房新型コロナウイルス感染症対策推進室)によれば2021年8月28日時点での累積死亡者は15,790人である。

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累積死亡者数

いつから数え始めたものかイマイチわからなかったが、オープンデータ(https://opendata.corona.go.jp/api/Covid19JapanNdeaths)によれば2020年4月21日の277人が最初のデータであろうか。

大雑把な計算であるが、2020.4.21から2021.8.28まではおおよそ485日程度、年に直せば1.33年。その間の死亡者が15,790人であるから、年間あたりに直すと約12,284人。明らかに交通事故死亡者数を超えている。COVID-19流行当初交通事故と比較し過剰に恐れていると断じていたが、今となっては誤りだった。

 

一方NIID(国立感染症研究所)の出した、2020年11月までの超過死亡、過小死亡の算出では、過小死亡数が超過死亡を上回る(気持ち悪い日本語)結果であった。

(日本の超過死亡数・過少死亡数 | exdeaths-japan.org)

果たしてどう見ればいいのだろうか。考えたくない。思考というの娯楽の一種であると同時に、多大なエネルギーを喰う本能的に避けるべき行動である。目の前に簡単な結論を持ってく来てくれる親鳥がいたらどれほど楽か。

数字を見れば、新型感染症流行語の日本において年間の死者が減少したのだから、施策は成功だったのかもしれない。しかし、体感で言えば、例年では死んでいたような人間が死なず、例年では死ななかったような人間が死んでしまったようにも思われる。

これは、毎年熱中症などで死んでいたような老人が外に出なくなったため死ななかったり、インフルエンザ程度では死ななかった40代などがCOVID-19に罹って死んでしまったことなども考えられるだろう。だから、数が少ないから影響がなかったなんてことはあり得ない。感染症流行による影響は負の側面もあったが、死者数でいえば正の影響(ポジティブな良い影響=年間死者数の減少)をも生み出したのだろう。しかし、いずれにせよ数字だけでは何も語れない。数字に意味を持たせるのが統計学であるのだから。

 

 昨日受け取った学会誌に、科学リテラシーは情報の発信者のみならず受け取りにもないといけないなどと書いてあったが、至極あたりまえのことであろう。アラビア語聖典を読んだところでアラビア語リテラシーのない私には何一つわかりやしないのだから。それに加えて仮に文字を追うことができても単語が分からなければ仕方ない。もっと言えば、常識がなければ慣用句や本来の意図を読み飛ばすことになってしまうのだ。アラビア文化に対するリテラシーもまた必要なのだ。

閑話休題

 

なんか小難しい話になってきたが、本題はそこではない。

 

「これまで数字でしかなかった三人称の死がなぜ身近になったのか」

 

国民に死者が出たからであろうか。しかし、交通事故の死者だって今までも国民であった。その数が甚大だからであろうか?ではなぜがんに対する恐怖はそれほど過剰じゃないのか?若者には関係ないから?それは交通事故で否定できるだろう。交通事故は老若男女問わず一瞬にしてその生命を脅かすほどの影響を与えるのだから。

では、情報の氾濫が二人称と三人称を近づけたのだろうか。いや、交通事故に対する情報だってかねてからずっと氾濫していた。街に出れば「交通安全標語」なる誰も気にも留めないような下らない文章を見ないことはないし、今では車に乗ればそのまま喋り出し「安全運転を心がけましょう」なんておせっかいを言われるのだから。いわれなくてもやるっての。

 

明確な理由は私には考えつかないが、その他のモノとCOVID-19とで異なるものがある。

それはCOVID-19は多くの人の習慣を変化させということだ。交通事故の死者がニュースで取り沙汰されたとしても、我々は習慣を変化させない。車の運転者が少々意識を変えることはあったとしても、それが毎日の習慣として残るかはやや疑問が残る。がんの死亡者や様々な疾病の患者が話題となったとしても、習慣は変わらない。生活習慣病なる言葉が定着して予防医療が発達した昨今であれど、多くの人間は実際に異常値や疾病が見つかるまで行動を行わない。

しかし、COVID-19は違った。多くの人間が、身の回りに感染症があふれるその前から自らの習慣を変えた。外出時にはマスクを着け、店に入るたびに検温・消毒を行い、帰宅すればすぐにマスクを捨て、手を洗い、うがいをする。こと2021年においてこれらの行動を行わない日本人の方が極端に少ないだろう。

「聞きたいのはそんなことじゃない、なぜ習慣が変わってしまったのか。COVID-19はなぜそれほどの影響力をもって受け入れられたのだ」と言われそうだが、あいにく私は答えを持っていない。

 

ああ、今思えばそもそもこの疑問がナンセンスだったのかもしれない。なぜ人間は八本足かなんて疑問に意味なんてないのだ。だって前提が成り立っていないし、成り立つ見込みもないから。そもそも三人称の死が近づいたから人々は怖気づいたのではなく、別の理由で、たとえば罹患により半月ほど自由を奪われてしまうから、人々は習慣を変化させたのかもしれない。

この文章は2021年8月におおよそ書き終え、そのまま、「聞きたいのはそんなことじゃない、なぜ習慣が変わってしまったのか。COVID-19はなぜそれほどの影響力をもって受け入れられたのだ」に対する回答が得られないがためにずっと下書きとされていたものに、一節付け加えただけの文章だ。

文章作成からだいぶ日が経ったが未だに何も見えてこない。多くの学者はこのパンデミックの始まりを何と見るのだろうか。

非日常の終わりを夢見るためには、その始まりを問いたださないといけないのかしらと思う今日この頃である。