ココボロだとか好きだとか

大学生による独り言と備忘録

12月の撮影会

ようやく日常に余裕が戻ってきたので撮影会に行ってきました。

カメラはMinolta ModelⅡとKonicaMinolta α-SweetDigitalの二つで、今回はデジタル一眼の後者のモノで撮った写真をいくつか載せています。

 

 

階段

   絞り     f/5.6

   露光    1/80秒

ISO感度   400

 

階段を降りる途中にふと下を向くと、なんだかいつもとは全く違う情景が見えた気がした。溜まる落ち葉と視界の端に映り込む銀。まっすぐと横に伸びる段差は非常に無機的で、石の隙間の苔だけが有機。見下ろした情景は、もはやどちらが上か下かもわからず、ただ積みあがるように網膜に写る。

つむじ風が鳴らす落ち葉の音は、どことなく夕立に似ている気がした。

 

 

灯る

   絞り     f/10

   露光    1/320秒

ISO感度   100

 

街灯は未だ点かず、傾いた陽が横から刺すように光を送る。普段は植物や風景ばかりを撮るのだが、少しくらいは自分らしい構図を手に入れたいと思って取り始めたのが、こういった逆光の写真だ。分かりやすく印象が強い。

透明なグラス(かどうかは知らない)についた無数の傷が光を乱反射させ白く映り込み、フレームはもはや色を失くした。単純ながら面白い写真が取れたと思う。

 

 

   絞り     f/5.6

   露光    1/160秒

ISO感度   200

 

オールドレンズを使って逆光の写真を撮ると時折、虹色のバブル状の光が映り込む。これはゴーストと呼ばれ、おそらくレンズコーティングの劣化などによるのだろう。詳しくは知らない。

枯れ葉というものも好きな被写体の一つで、特に穴の開いた葉なんてものはそこらの花より幾倍も面白い。この写真ではちょうど中央に枯れ葉を、写真全体に虹のグラデーション、右には虹、左にはバブルを移すことができ非常にバランス感がいい。

 

 

時期外れ

   絞り     f/5.6

   露光    1/160秒

ISO感度   640

 

紫陽花が好きで、特に白いものが好み。今回は紫陽花と呼ばれて真っ先に思い浮かぶ色合いの株で、こんな時季外れに未だ残っているのはと思い撮影した。面白い写真ではないが、面白い情景ではあった。こういった"どうでもいいものを面白く撮る"ことが腕前と呼ばれるのだろう。私にはまだないが、いつかは撮れるようになりたいものだ。

 

 

 

以上4枚。結局数十枚撮影したところで気に入ったのは数枚で、まだまだ研鑽が足りない。

先日の『感性は感動しないに寄せて』でも語った(気がする、削除してしまった段落かもしれない)のだが、私はこの視力の悪い両目を信じている。私よりも上手く、この情景を撮影することができる人間は五万といるだろうが、私よりも綺麗にこの情景を感ずることのできる人間はおそらくいないだろう。いつも、そう思いながらカメラを向けているのだ。

 

α-SweetDigitalはもう15年以上前のデジタル一眼で、おそらく最新のiPhoneよりも画素数は低いだろう。もちろんカメラの良し悪しとは画素数でもなければ、レンズのみでもなく、それぞれ複合的な要因で決まるのだろう。

私は月や星、鳥なんかを撮る趣味は持ち合わせていないので、このまま壊れるまではこの機械を使っていくのだろうと考えている。カメラを趣味とする人間にしては金がかからないだろう。といっても、フィルムの方、特に二眼レフ富士フイルムがブローニーから撤退したため、フィルムの値段が上がり金がかかるのなんの...最近はもっぱら35mmだ。

二眼こそが私の初めてであるからもっと活用したいとは思ってる。いつかは。

 

『感性は感動しない』に寄せて

『感性は感動しない』

この本を読んだ。1章はとても面白かった。2章以降はあくまで、1章を書いた作者とは何者なのかを語るような文章で、not for me という他ない。悪い本ではない。ただ、私には1章のみで十分だった。

 

表題の通り、感性は感動しない。私もこの言葉に同意する。

「感性を磨く」とある人は言うが、著者はこの言葉にも岡本太郎を引用しながら疑問を投げかけている。著者は「感性を磨く」なんてものはある種の因果応報思想のようなものではないか、と語っている(P13)。

 

私も思うに、日本人は過程を重視するきらいがある。努力、友情、勝利は少年漫画の三大要素と言われるが、このうち、努力は言うまでもなく過程の重視で、友情だって、たいていは仲たがいからの仲直り、もしくは、かつての敵が味方になるといった構成がいくらでも存在する。確かに胸熱だ。でも、芸術にまで過程は必要だろうか。

 

感性は感動しない。感性は磨けない。私はこの言葉を初めて見た時、心の中にあった漠然とした考えが、初めて骨のある生き物になったように思われた。だって、感性なんてものは性質であって、それ自体が感動するわけでもなければ、性質を変えてやれるわけもないから。能力なんてものは所詮、あらかじめ決まった性質という名の基礎に立てられた支柱の様なもので、能力を伸ばし、壁をつけることはできれど、後から基礎をどうにかすることなんて叶わないのだ。

しかし、確かに絵を見た時の感想なんてものは、それまでの経験によっていくらでも変わり得る。ピカソ(芸術論でピカソとかデュシャンピサロゴッホなんて引くと素人っぽいよね、閑話休題)の絵を見て感動できる人間なんて一握りで、何も知らない少年少女にピカソを見せたところで、その凄みを理解することはできないだろう。きっとモネやらドガを見せた方が幾分かましに違いない。

では、ピカソを見て感動する人間なんてものは、やはり感性を磨いたのであろうか。私はそうは思えない。感性を磨いたのではなく、自らの感性以外の枠組み、もっと言えば学問領域としての芸術史、芸術論が彼らを感動させたのである。

 

 

古典美術なんてものは、その名の通り美術であった。しかしながら、もはや芸術と美術は異なり、artなんてものはもっと異質だ。美術が美学に基づくのであれば、芸術は芸学に基づくのであろうか。artは単なる快楽や欲求に端を発し、いつしか学問にまで上り詰めた。考古学時代の洞窟壁画なんてものは欲求に過ぎず、見る為に描かれたのだ。そんなものが時を経て美しいものをいつでも見られるように芸術になり、今では目的と手法が逆転し、描くために描かれている。ここでいう描くという言葉は、単にpaintingというよりかは表現全般を指すといった方が正確であろう。

 

 

我々が芸術論を学ぶのは、感性を磨くためではない。感性のみでは覆いきれない領域を芸学、美学を用いて補足することによって、新たな視点を得るのである。

生れながらの人間にピカソなんて見せても絶対に感動しえない。彼が偉大だとされるのはそれまでのartの枠組みを破壊し、拡張したからだ。そしてその事実に感動するためには、学問をせねばならない。artを学ぶんなんてことは、感性を磨くているわけではなく、生まれながらには持っていない新たな視点を得る為であって、ナニカ高見にあるものを理解するためではない。異質なものを受け入れる土壌を作るに過ぎないのだ。

 

 

 

 

 

sekaishisosha.jp

 

 

Underson Undersonのシャツ

Underson Undersonのタグ

ついに手を出したブランド、Underson Underson。

アンダーソン・アンダーソンは肌着から出発したブランドで、肌にあたる部分の99.9%が和紙でできたアパレルを多数販売している。

有名な商品は下着。メンズもレディースも出ており、方向性としてはCalvin Kleinに似ている。シンプルなデザインに大きなロゴで、ヘルシーな雰囲気を大切にしているようだ。

 

和紙繊維のタグ

上述した通り、和紙繊維を前面に押し出したブランディングが見られるタグ。

実際、吸水性に富んでおりサラサラとして肌触りがよく、紫外線カット効果もあり素材としても優れているように思われる。そのうえ和紙=植物繊維であるからして、環境にも良いサステナブルな素材という部分も売り文句としては優秀そう。(私は興味ないけれど、洗剤・柔軟剤は『さらさ』を使っている。なぜなら天然素材にこだわって"いそう"だからである。実際拘っているのはその雰囲気であり、中身にはなんら興味ない)

(ちなみにこのタグは、左右三針くらいで留められており、おそらく取ることを想定しているのだろうけど、本当にあっているのか不安になる。私は取った。)

 

私の買った商品はこちら

和紙45%、レーヨン41%、ポリエステル14%の混率で光沢感がある。なお、ワンウォッシュからアイロンをかけたが、しわが結構出る。

また、アイロンの際に水滴が直接ついた部分にはシミができてしまった。あとからスチームアイロンを全体に掛け直すことで取り払うことができたが、おそらくベストなアイロン方法は、襟だけ普通のアイロン、あとの部分はスチームだろうか。ちょっと面倒かもしれない。

 

 

ガゼット

袖先

定価でおよそ18,000円するだけあって作りはしっかりしている。ガゼットもきれいについているし、その付近の縫い合わせも幅がそろっており、Rも美しい。袖先も剣ボロ部分が外からは一枚に見えるように折り返されるなどよくできている。

また、袖先のデザインは特筆すべきだろう。剣ボロにガントレットボタンはなく、シームレス(に外からは見える)。短いカフス部分は、別布ではなくステッチングで仕切られており、リムの太い茶蝶貝のボタンが一つ留められている。普通シャツの袖先のタックは、カフスの布に先端を差し込んで縫うことにより作られているが、カフスまで一枚布のせいもあり、こちらも変わった作りだ。両側から折りたたむことにより、左右対称に広がりを持つ、観音開ってタックにもつかうのだろうか、そんな感じ。

 

 

 

バックプリーツ

襟は台襟のないデザイン。というよりはパジャマを基にしているだけあってオープンカラーの作りになっている。また、前立てはプラケットフロントながら、ステッチが生地の端ギリギリにあるせいか、あまり主張が強くなく、着やすい。(私は表前立てがあまり好きでない)

また、襟芯はなくカジュアル特有の柔らかさ。それに加え襟先のステッチはなく、極シンプルでエレガンスな印象を放っている。

後ろ姿については、そもそも身幅や肩幅が広く作られていることに加え、バックプリーツは相当袖に近い部分に入っているためカジュアル感が強い。リラックス感というのだろうか。

 

 

襟元のボタン

裾はバックの方が7.5cmほど長く作られており、イマドキ感が強い。また、先ほどから何度も言っている「裏地の99.9%は和紙繊維」が、一目見てわかるくらいには裏と表の生地の素材感が全く違う。

また、シャツ好きが必ず見るポイントであるボタン付けはいまいち。写真は襟元であるのにもかかわらず、生地にベタ付け。二ノ字掛けであるものの、根巻はなく、それどころかボタンと生地の間に空間すらない。さすがにちょっと留めにくいかな。

 

とまあ大体はそんな感じ。本当は全体感の写真をお見せしたいのであるが、丁度いい撮影スポットが自宅にないため、撮れないでいる。撮影用のシンプルな一本のシルバーハンガーポールが欲しいと思ってしばらく経つが、結局買わずじまいでいるのだ。

 

 

袖付け

 

総称としては、よくできたシャツといったところだ。

肩の袖付け部分などの生地の折り返しは細く丁寧に抑えられており、縫製へのこだわりを感じる。また、先述した襟先やヨーク付けのステッチは見えないように裏へ折り込まれており、縫い目を隠すことによって、却ってミニマルへの追求が露わになっている。

パジャマをベースにしながら、外で着れるようなよくできたデザインであるし、裾先や襟先のちょっとした気の利いたデザインなど"ハズシ"が効いている。

 

しかしながら、学生の私からすると18,000円はやや高い。まあ、このブランドの代表的なアイテムであるアンダーウェア(ショーツやボクサーパンツ)ですら、レディース・メンズともに4,000円くらいすることを鑑みれば、少しお金に余裕のある20後半から30代をメインターゲットにしているのだろう。ヘルシーな雰囲気からも、人生に余裕のある(意識高そうな)人々が対象なのは明白であり、そういった人たちからすれば、4,000円のアンダーウェアも18,000円のシャツも高すぎることはないのかもしれない。

 

ちなみにアンダーウェア難民であった私は、ついに4,000円の肌着を2枚も買ってしまった。本当は、もっとブランド主張が少ないものを探していたのだけれど、まあ和紙の機能性に惹かれたってことにすればいいかということで購入に至ったのだ。本当は7枚で10,000円に抑えたかったのだけれども仕方あるまい。

 

ということで、最後は下着の話になってしまったが、このシャツについても概ね満足している。ブランドの持つ雰囲気やアイテムのデザイン、素材を重視する価値観などが気に入った。まあ"私には"高いのであまり買わないかもしれないけれど、ブランドの沼にハマってしまったのかもしれない。

KonicaMinolta α-sweet Digitalによる撮影と柚木沙弥郎展について(2022.09.17)

久しぶりでもないのだけれど撮影会のまとめ。

本当は少し前に高尾山をカメラを持って登ったのだけれど、久しぶりの登山で撮影どころではなく、あまりいい写真が撮れなかったのでお流れ。本日は相模原にある女子美術大学で『柚木沙弥郎の 100 年-創造の軌跡-』がやっていたのでその近くの公園を中心に撮影してきました。

といっても100枚くらいとった中で紹介は5枚のみ。久しぶりにタムロンのレンズを使ってみたら、画面上ではピントを合わせていたつもりが、PCで見てみるとぼけている。あるいはホワイトバランスが悪くて見れたものではない写真もいくつかあり、技術を磨かなければと思うばかり。

 

ちなみに女子美術大学美術館の『柚木沙弥郎展』は非常に面白い企画展でした。私はもともとIDEEでのグッズや『夜の絵』で彼を知っており、以前立ち寄った別の美術館でチラシを見つけ興味を惹かれ、今回訪れました。

東京駅からだと、中央線で新宿、新宿から小田急線に乗って神奈川へ入り相模大野駅へ、そこからバスに乗って15分くらいとあまり遠くはありません。しかしながらバスの本数がやや不安要素ですね。

柚木は「染色」の技術の中でも「型染め」に拘った工芸家・作家であり、日常に存在する美を大切にし、布での表現を行い続けている人物です。私も(ファッションの意で)布が好きなので、布そのものの美しさを引き出すような染めを行うという趣向には、強く共感を覚えます。また、展示会の冒頭で柚木が感銘を受けたとして、柳宗悦の「民衆が日常使う器や道具にこそ、健康な美がある」という言葉が引かれていますが、これには私も肯定しかないです。

以前、食器について語る記事(タイトル忘れた)で日常にこそアートをといった話や、身近な食器に芸術を持ち込むことへの憧れについてを散々書きましたので、柳の言葉は、私がこれまで雑に考えてきた概念がうまく文章にされていたのだと感動しました。

柚木の布は3mほどの大ぶりなものが多く、展示室入り口に複数飾られた光景は写真に収めたいくらいの迫力でした。まあ日本の美術館は基本的に撮影できないのであきらめですね。

更の布を染色するだけで芸術に変えてしまう。そのうえ布は日常を彩り、一般的な行為すら一種の芸術に昇華させる力を持つと考えると、やはり布やファッションへのあこがれが強くなるのです。

今回、5枚目の写真にある通り、IDEEで売られているソックスを二足買いました。普段だったら2,000円もするソックスなんて絶対買わないのですが、展示会を見た後だと欲しくなってしまい購入。散財は辞められそうにないです。

『夜の絵』も購入したいと思ってます。

 

それでは以下、コニカミノルタのアルファ・スイート・デジタルによる写真の紹介です。

 

つながり

カメラ KonicaMinolta α-sweet Digital

レンズ Tamron AF 28-200mm

  絞り   5.6

  露光   1/320

  ISO     800

 

 

ガラス越し

カメラ KonicaMinolta α-sweet Digital

レンズ Tamron AF 28-200mm

  絞り   5.6

  露光   1/250

  ISO     800

 

 

カメラ KonicaMinolta α-sweet Digital

レンズ Tamron AF 28-200mm

  絞り   5.0

  露光   1/160

  ISO     320

 

 

題名

カメラ KonicaMinolta α-sweet Digital

レンズ Tamron AF 28-200mm

  絞り   5.0

  露光   1/125

  ISO     800

 

 

靴下

カメラ KonicaMinolta α-sweet Digital

レンズ Tamron AF 28-200mm

  絞り   5.6

  露光   1/60

  ISO     800

 

 

購入品紹介:Zwieselのエアセンス

zwieelのエアセンス


Twitterで言っていたzweiselのエアセンスを買ってしまった。

もともとワインなんて飲まないが、工業製品としてのワイングラスに惚れ、様々漁っていた。一番初めに欲しくなったのはRosenthalのqupola、ボウルはくびれがなく直線的に落ちる形状で、その底からは力強めにやや太い2本のステムが伸びている。背はそこまで高くはなく、シンプルながらシングルステムという常識を破壊して作られたそのデザインに憧れをを持った。結局まだ手に入れていないのだけれど。

 

なんだかんだqupolaが欲しいまま放置しており、その間にも様々なワイングラスを探すうちに購入に至ったのがzwieselのエアセンス。エアセンスはワイングラスの中でも結構値が張り、元値は27,000円。しかしながらNarumiのセールで1/3ほどの8,800円まで値下げされていたので、ついつい触手を伸ばしてしまった。だってrosenthalとかはそもそも中古だからいつだって5,000円くらいなのに、エアセンスは誰も買わないから新品でしか売っていない。だからこそ、安いところで安い内に買わなければと思ってしまったのだ。まあ結果満足しているからいいのだけれど。やや散財感も否めない。

 

ちなみに送料無料や、限定のハンカチプレゼントキャンペーンをもらうために11,000円を超える必要があり、追加でnomaddの12cm、ボウルをともに購入した。これも散々話してきた品だ。

Narumiのnomadd (12cmボウル) A

Narumiのnomadd (12cmボウル) B

閑話休題

 

エアセンスについての話に戻ろう。このグラスは重量わずか117g。ハンドメイドで作られており、非常に薄口で張られている。

薄張りの飲み口

グラスによって飲み物の味が変わるとはよく言われることだが、この薄口は非常になめらかで口当たりがよく、感覚的ではあるが、飲み物に変化を与えることなくそのまま愉しめているような印象を受ける。

 

エアセンスは、グラス単体でデキャンタ―ジュ効果を得られるように、ボウルの中に球体が配置されている。もちろん固定されているため、ぶつかり合ったりはしない。ステムのちょうど真上にゆがむことなくつけられており、技術の高さがうかがえる。

ボウルのそこにつけられた球体

しかしながら問題もある。

非常に洗いずらいという点だ。写真を見ていただければわかるが、球体は半球ではなくほぼ全球に近い形をしている。だからこそこの球の下を洗いずらい。一応プラスチックのブラシも付属しており、これを使って洗えという事なのだろうが、手間がかかる。そもそも薄口のワイングラスを洗うだけで気を使うのに、この球体の煩わしさと言ったら。

 

リム部分の印字

リムにはハンドメイド特有の印字(刻印?)が為されており、高級感がある。また、リム付けも非常にきれいで、高価なだけあると感じる。

 

後は、そもそもデキャンタ―ジュ効果とはいったいなんぞやということだ。効果そのものは、ワインに空気が当たる事で酸化し、口当たりや香り、味が変化することを指している。しかしながら、理系の私からするとこれが疑わしい。デキャンタ―ジュ効果はもちろん肯定するが、このエアセンスで、その効果が本当に増大されているのだろうか?

普通のワイングラスにワインを注いで、くるくると回すだけで酸化させることができる。わざわざ、手間をかけて、しかも27,000円というコストを払ってまで、洗いづらいグラスが必要なのだろうか。

今の私にはわからないが、後々検証でもしてみたい。検証すればメリットに気がつくかもしれないから。けれどそのためには、ワインについて明るくならなばならないのだ。

先が思いやられる......

 

 

 

そんなこんなで文句を垂れているが、私はエアセンスを購入して満足である。なぜならこのグラスは美しいから。それだけで買った価値がある。私は、食器が好きだ。日常に芸術を混ぜ込むもっとも簡単な方法は良い食器を使うもしくは良い衣服を身に纏う事であろう。

エアセンスがよりよりdrinkingの時間を形作ってくれることを祈って終わりにしよう。

オランガタンから考える、現代の多様性論争について

オランガタンの話。

『オランガタン』は1980年2月に「みんなのうた」にて放送されていた楽曲です[1]

歌詞では、青い色の幸せを良しとするオランガタンと、赤い色の幸せを良しとするオランガタンのお話が語られます。彼(女)らは、深い川を挟んでお互いがお互いを気にしつつも、それぞれがそれぞれの幸せを享受しておりました。

ある日、彼らを隔てる深い川が増水し、二つの町を一つに変えてしまいます。その街では、もはや青と赤との別々の幸せではなく、色の隔たりを超えた紫色の、これまでとは全く違った不思議な幸せがあらわれるのです。

しかし、オランガタンたちは思います。もともとの青い色の幸せと赤い色の幸せの方がよかったのだと。そして二つの町を一つにした川はあきれて、水を引き、再び彼らの町を二つに戻すのです。

そして、彼(女)らの町の空には青い色の幸せ、町の花には赤い色の幸せが戻りましたとさ、おしまい。

というお話です。

 

私自身、説教臭い歌詞や厭に物語性が強調された歌詞は嫌いなのですが、このオランガタンは目を見張るものがあるでしょう。それはやはり、紫色の幸せを最上のものとしなかった所です。二項対立からの止揚、そしてジンテーゼを生じさせるというものではないのです。

ヘーゲル弁証法的に言えば、「青い色の幸せ(テーゼ)」と「赤い色の幸せ(アンチテーゼ)」はともに対立するもであり、それでいてどちらに優劣があるものではありません。この全く対立するもの二つを統合し、新たな命題を考え出すことが止揚ですが、このオランガタンでは、止揚で生じた「紫色の幸せ(ジンテーゼ)」を最上のモノとはしません。ヘーゲル的には「紫色の幸せ」ができて良かったね。というところですが、それは1番までの話。起承転結で言う、起承までですね。

二番では、転として「やっぱり青と赤それぞれの方がよかった」と懐古するのです。私達も日常で問題があれば、それぞれの人が語る意見を統合し、よりよい意見を目指すでしょう。その手法は間違いではなく、この多様な現代を生きる上で必要な能力だと思います。しかし、それと同時に、「幸せ」といった概念そのものや「目的」という追い求めるものそのものは、何でもかんでも統合すればよいというものではなく、それぞれがそれぞれを思うままに、統合しないままお互いをお互いのまま認めることが重要なのではないでしょうか。

 

そして結では、元の二つの町へと戻り、元の各自の幸せを再び手にするのです。ここでは結局、青と赤どちらがよかったと語られることがなければ、紫が良かったといわれることもありません。

私はこの『オランガタン』こそが、この「多様性を認めよう」という社会の回答に思えて仕方ありません。現在の世の中は、大きな川の流れが「誰もにとってもよいで"あろう"紫色の幸せ」を作ろうとしている状況に思われます。オランガタンから学ぶとすれば、必ずしもこの「紫色の幸せ」は最上ではないのです。しかしながら、だからと言って紫色を目指さなくてよいわけではありません。一般論として二項対立の意見を統合することは重要でしょう。大切なのはあくまで、それが最上だと決めつけないこと、そして、誰かが再び「青色の幸せ」や「赤色の幸せ」を望んだのならば、彼らがそれを手にすることを止めてはいけないのです。それこそ、良し悪しや幸いなんてものは相対的で絶対的ではないからです。多様性を認めるということは、対立意見に潜む理想を見つけ出しつつ、個人が個人として追い求める理想を否定しないことです。

この流れがもっと大きくなり、いつの日か紫色ができた時、我々はきっとまた青と赤が恋しくなり、本当に大切なものに気がつくのではないでしょうか。

 

余談ですが、私は「命は平等」という言葉が大嫌いです。私にとって命は平等ではありません。私にとっては平等でなく、あなたにとっても平等ではないでしょう。家族や友人、目の前の人間の命と比べて、地球の裏側に存在する人間の命は優先度が低いでしょう。そしてそれは、地球の裏側に住む人間にとっても同じことです。誰にとっても平等ではないからこそ、「絶対的な価値・順位が存在しない」だけです。それを誰かが平等を呼び、必要な条件付けが忘れられたのだと思ってなりません。

 

以下、歌詞を載せて終わりにします。なお、歌詞は聞いたものを打ち込んでいるため、表記等が間違っている可能性がございます。以上

 

(女声)深い川の右の岸で

(男声)深い川の左の岸で

(女声)川の向こうすこし気にして

(男声)川の向こうとても気にして

 

(コーラス)オランガタン

 

(女声)ここでは青い色の幸せが

(男声)ここでは赤い色の幸せ

(女声)なにより美しいといわれてる

(男声)だれもが他の色を認めない

(混声)川はある日水を増して

    町を一つにした

 

(混声)ああ青赤交じり紫色

    ああ不思議な色の幸せの世界さ

  

(コーラス)オランガタン

 

(女性)私に青い色の幸せを

(男性)返して赤い色の幸せ

(女性)心を青く染める喜びを

(男性)心を赤く燃やす灯を

(混声)川はあきれ水を引いた

    町を二つにした

 

(混声)ああ空には青い幸せが

    ああ花には赤い幸せが戻った

 

(コーラス)オランガタン

夜の木について

夜の木

『夜の木』、第三世界と呼ばれる地域の文化芸術に明るい、もしくは出版業界とくに絵本に詳しい人であれば知っているでしょう。

日本ではタムラ堂が販売しているこの本は、インドのタラブックスにて手作業のシルクスクリーン印刷や職人の手仕事による紐綴じで生産されている絵本です。その原画はバッジュ・シャーム、ドゥルガー・バーイー、ラーム・シン・ウルヴェーティの三名の芸術家によって描かれています。私はそもそも『ロンドン・ジャングルブック』でシャームを知り、その流れでこの一冊を手に取りました。

タラブックスと言えば、無印良品の『みなそこ』をご存じであるかもしれません。一度タラブックスの本を手に取れば分かりますが、その本は挿絵一枚一枚がもはや一つの作品であり、額装して飾ってしまいたいくらいのクオリティで仕上げられています。『夜の木』や『世界のはじまり』(上記、シャームによる絵本)は売ってる場所が限られていますが、『みなそこ』は全国のMUJIBOOKSで販売されているようですので、是非ご覧になってください。タラブックスの本はどれも3,500円程度の価格で販売されていますが、手に取れば分かります。その本はもっと多大な価値を孕んでいると。

 

『夜の木』の話をしましょう。この絵本では19本の木に纏わる伝承が非常に平易な文章と共に、西洋でもあるいは日本とも全く異なった、独特の空気感を纏った挿絵によって紹介されます。私の持っている本は第8版ですが、それ以降も重版が行われています。

その挿絵のみならず、伝承それ自体も地域特有の空気感を有しており、私達の思う「日本昔話」のようにある人に焦点を当て起承転結が語られるようなお話ではなく、あるいは「●●童話」のように何かしらの作者の意図が透けたものではなく、もっと大自然に根差したような徒然なる世界観、人間と他の動植物の垣根が小さくなったように感じるお話です。異文化に触れることによってかえって自らの文化を知ることができると深く感じたのはこの本のおかげでしょうか。もちろん西洋の画家の企画展や様々な作品を通じてそう思うことはありましたが、改めてそれぞれ固有の文化に興味を持ったのは、この素敵な一冊に出会ったからでしょう。

 

私の趣味はカメラ、自転車、読書、音楽鑑賞、美術館巡り、食器集め、服飾等々ありますがもう一つ、絵本集めも入るでしょう。そのきっかけとなったのは、間違いなく『夜の木』や『敬虔な幼子』などのおかげです。

そういえば現在は世田谷美術館にて「こぐまちゃんとしろくまちゃん」の企画展が開催されています。

作者である、わかやまけんについてあまり詳しいわけでもなく、ただ一度企画展に訪れただけではありますが、彼の描くイラストのバランス感や空気、水の表現。絵本を描くという事に対する考には気づかされることがありました。単純な図形の組み合わせで表されるこぐまちゃんたちは、明るく強い色彩の背景の上に描かれており、その色彩もまた魅力的です。来月の頭までですのであと二週間ほどですが、是非一度訪れてみてはいかがでしょうか。絵本に纏わる企画展、私は非常に好きなのですが、これからも増えて頂けたらと思っております。