ココボロだとか好きだとか

大学院生による独り言と備忘録

音楽を...

近頃は、マス・メディアの発達によって、こちらがちっとも音楽など聞きたくないときでさえ、あちらの方から勝手に<やあ今日は>という調子で、つきあいを求めてきますので、人と音楽との関係は、ますます複雑な様相を呈するに至りました。

これは、芥川也寸志の『音楽を愛する人に』という文庫本[1]の前書きである。

 

彼が指摘する通り、今日の音楽は憂鬱な日でさえやけに親しげに話しかけてくる。尤も、この本の初版は1981年ではるか40年以上も前のお話であるのだが...

 

私は外出の際にはほとんど音楽を聞いている。これは受動的ではなく能動的に。このブログでも語っているLaura day romanceがやはり一番のお気に入りだが、最近はまた、昔にハマった嘘つきバービーやニガミ17才、andymori、日食なつこなどを聞いている。私にとってジャンルの統一性はあまり興味がなく、むしろ甘いものを食べたあとにはしょっぱい物が食べたくなるのと同じように、色々な味を愉しむことを重視している。

閑話休題

 

なぜこんなことをするか、そうでもなければ私は興味のない音楽にまみれた日常を送らねばならないから。芥川の指摘の通り、現代は至るところで音楽がかかる。それは、大抵の場合は全く興味のないものであって、時に耳を楽しませるが、多くの場合はそうではない。知らない人の知らない音楽を聴くのは確かに楽しいかもしれないが、自らの感情に当たらない音楽を聴くのはやや苦痛である。

だからこそ私はいつもイヤホンをつけ、好きな音楽を聞いているのである。

 

こんなことを言うのだ、さぞかし良いオーディオを使っているのだろうと思われるかもしれない。しかし、そんなことないのだ。今使っているのは4,000円くらいの安物のBluetoothイヤホンである。だって私は音を聞いているのではなく、音楽を聞いているからだ。

昔、楽器をやっていた。以前話した、このブログ名の由来であるココボロを使ったクラリネット。当時はそれなりに良いイヤホンを使っていた、Boseの有線。なぜなら音を聞きたかったから。当時憧れていたクラリネティストの音を。何度も何度も、繰り返し音を聞いた。くさるほど聞いて、頭の中で寸分違わず再現できるくらいになるまで聞いて、同じ音を出せるように練習をした。

けれど今は違う。もはや表現を行うのは文章とカメラくらいになってしまったから、良いイヤホンは必要ない。<やあ今日は>という声かけをきっぱり断れるだけの音を持っているだけでいいのだ。

 

といいつつ、いつまで経っても私のあこがれはErroll GarnerやHiromiのピアノであるから彼(女)らの作品を聞くときは、そこそこ良いオーディオ(スピーカー)を使って聴くことが多いし、お気に入りのバンドなどの音楽はしっかりとプレーヤーで聞いたりもしている。

そもそも音楽を聴くというのはそれなりに頭を使うことだ。現代ではただ簡単に消費してしまうことが多くなってしまったが、それでも、聴こうと思えば昔と同じくらい深く聴く事が可能であり、しかもそれを繰り返すことだって可能だ。つまり、現代に生まれて音楽を簡単に消費できる状態を可哀想というのは全く的はずれであり、むしろ個人が個人の趣味趣向にあった消費の仕方を行うことのできる現代は非常に恵まれているのだろう。閑話休題

音楽を聴くことは疲れる。だからちゃんと聴くのは私の場合はたいてい自宅だけであって、外出先ではすでに深く聴いた音楽を繰り返すことで、新たな音楽を弾くことにしているのだ。

 

皆さんに取っては音楽はどういうものでしょうか。私には難しすぎる回答は、概ねこの1,500字煮詰められたと思っております。

 

 

 

[1] 芥川也寸志, 音楽を愛する人に, 旺文社, 1981, 重版p.3