ココボロだとか好きだとか

大学院生による独り言と備忘録

枝染め桜

あまりいい写真ではないことはおいておいて、この枝、なんだかわかるだろうか。そう、桜である。

 

私は桜が(そこそこ)好きだ。中でも花が咲く前の桜が好きなのである。これは皮肉で言っているわけではない。私はこの生命力を感じる枝の赤さに惹かれているのだ。

 

桜は、花を咲かせる2,3か月ほど前から枝を赤く染める。その赤は桜色なんて生易しいものではなく、もっと一目見て赤だと分かるような燃ゆる赤である。桜染めという言葉を聞いたことがあるかもしれない。草木染だとなんだか葉や花から染料を取り出しているように思われるが、その実、桜染めは枝から染料を採る。それも花が咲く前の桜ので枝から。

初めてこの話を聞いたとき、なんだかもったいない気がした。だって咲きほこるその花こそが桜の中心だろう。桜なんて生殖をおこなわない花々は、せいぜい人の目を喜ばせることくらいでしかその子孫を残す術はない。正確には子孫ではなく、クローン、つまり自分自身なのかもしれないが...

しかし桜染めはその花すらを桜から奪ってしまう。何だかもったいない。けれど、この話を聞いた後、初めて花を咲かせる前の桜を見て驚いた。それまで、花や葉の無い桜なんて、幹のうろこが隆々としてなんだか荘厳さを感じるくらいであり、ただの風景に過ぎなかったのだが、赤々としたその枝はもはや花なんかありきたりのモノよりも美しく見えた。そこには、それ以上の生命を生み出し得ない桜の花なんかよりも、生き生きとした生命を感じることができるからである。

 

 

こんな話、本当はあまりしたくないのである。むかし「桜は、花が咲く前に、枝が染まる頃が最も美しいんだよ」と言いかけ、口をつぐんだ経験がある。私はその時、自分自身の言語化できてなかった思考の癖を、はっきりと理解してしまったと感じたのだ。

私は常々、成功するその直前にすべてを失くしてしまいたいと思っている。なぜなら、成功したその先には、花は散る他ないからである。しかし、咲く前ならどうだろうか。人々は、花が咲くという期待を抱いたまま、そして花が結局咲けなかったことを残念に思う。それは、散ってしまったことを残念と思う心持とは全く別なのである。

私は、あまり前向きな人間ではないのだ、だから、成功した後に散ってしまうのが怖い。失望されるのが怖いのだ。だから、咲くその前に枝染め桜の状態で、桜染めにでもなってしまいたい。そうすれば、将来に期待されたその明るさのままで、私は何等かの影響を残して去ることができるのだから。

 

ただ、桜染めはあくまで受動である。私が桜だったとしたら、自ら染め得るのはその花それのみである。枝を折るのは他の誰かでないといけない。

だからこそ、私は花を咲かせるまで耐え抜き、花を染めなければならないのだとも理解しているつもりである。結局、私はこの強くない精神力のまま、何とかこの世界を生き抜かねばならないのだろう。

 

ああ、枝染め桜。私はその生命の赤さに、心を奪われたのである。