ココボロだとか好きだとか

大学院生による独り言と備忘録

雨の一日

雨の日。私は大抵虚無感に苛まれる。

それは、雨を確認した後に始まるのではない。なんとなく、重い心持から朝が始まる日が存在し、そういう日は大体、雨が降っているのである。つまり、私が理性的に雨を認識して憂鬱になるのではない。無意識的に、(私はあまり信じていないが)低い気圧などに体が苛まれて、非理性的な陰鬱に塗れるのである。

朝起きて必ず水を一口含むのだが、その容器を掴む手に力が入らない。昨夜までは何の苦労もなしにできていたはずの当たり前の行為が、果たしてどうして可能であったのかすら分からなくなってしまうのだ。

 

私は低気圧だから体調不良になるというのを信じない。他人が言う場合は信じているが、私自身はそんなものに影響されているとは考えていない。だって、そう思ってしまったが最後、私は今後一生、雨の日を辛い日だと認識して生きてゆかなければならないから。私はかたくなにその言論を信じないことで、私自身の世界を私のモノとして自由に組み替えているのである。知らぬが仏。

そして閑話休題

 

 

今日一日。やるべきことはいくつかあったはずだ。先日あった人への連絡とか、発表資料の登録とか、資料作成などなど。それでも、なんとなくの陰鬱に塗れて何もできなかった。

私はいつも、誰かを思い出してそして、その人までの遠さに心をヤられる。この遠さというのは時間的・空間的な距離だけではなく、心理的な距離もそうである。私がもつこのはっきりとした心持と、相手が果たしてどんな心持を持っているのか分からないというその事実が、私を追い込むである。追々、つまらない備忘録を書いた後に人と会ったが、もはや何の感情もわかなかった。はずなのに憂鬱と同時にまた後悔の念が私を襲う。私はもはや自分自身というものが何か一定の感情のもとに生きているだなんて信じられなくなって、こうして毎回備忘録を書くのだ。

 

池田満寿夫の陶板画を覆う硝子板に、円筒型をしたつまらない天井照明が反射している。私の部屋は毎朝暗く、そして一日中この照明が退屈な白い光を放つのだ。部屋全体をまるで均一に、昔の病院のように照らして廻る。だから私は影一つなくなってしまったようなこの部屋の中で、陰鬱な文章を書いているのだ。

 

詰まらないこの一日を、少しはましにしてくれるために文学があるのだと思っている。そしていつも、読まなければ書けないと分かりつつ、結局何も読まぬまま新たな文章を書き綴る。和語、それだけが今回の主題と束縛条件である。