ココボロだとか好きだとか

大学院生による独り言と備忘録

憂鬱と待機

最近はよくブログを書いている。

陰鬱とした心持を発散するための一つの方法が、ブログであるからかもしれない。

 

この間は和服を着て街を闊歩した。といっても伝統的に聞かざるというよりかはもっと和洋折衷のコンテンポラリーな服飾だ。

グレーのタートルネックをインナーにしてネイビーの亀甲柄・大島紬のアンサンブルを重ねる。帯はいつか買ったグレーのものを絞め日常着ながら濃茶の行灯袴を履いた。アクセサリーとしてはパールのイヤリングを片耳に下げ、腕にはベビーパールの数珠、人差し指には甲丸のリングをはめた。カラーはシルバー。それに昔に買ったwalthamの懐中時計を組紐の代わりに羽織に掛けていた。

街ゆく人が私を見る。ある種の罰ゲームのような気持ちになりながらも、こんな格好をしている自分のせいだと冷静になる。変な恰好をしているが、可笑しい恰好はしていないから大丈夫なのだ。十分、私はそれを着こなしていた。手前味噌。

 

立ち寄ったカフェでは「おひとり様で大丈夫ですか」と言われた。確かにそんな恰好をした人間が一人で来ることはまずないのだろう。普通に考えれば連れがいて然るべきだ。なんとなくショックを受ける。行きの電車やバスはいかにもこれから誰かと会うみたいな顔をすればいいし、帰りはもう予定が終わった顔をすればいいのだけれど、さすがに喫茶ではそうはいかなかったのだ。

おいしいものを食べ、おいしいものを飲んだ。

昔からブルーベリーが好きで、フレンチトーストの付け合わせについ選んでしまった。あの粒感が少し残りべったりとした甘さの、ちょっと酸っぱい様子が好きなのだ。今回はさらにカスタードクリームも添えられており、意外な相性の良さにも驚いた。

飲み物は和紅茶。初めてのモノだったので、一応ミルクと砂糖を下さいといったが、忘れられていた。結果、ストレートのノンシュガーでおいしかったからいいのだけれど、せっかくだからいろいろ試しておいしい飲み方を探りたかった。

 

大体そんな感じ。

 

 

私は、自らの一日を過ごしたのである。そして幸いな一日を過ごした。

そしてだからこそ、陰鬱さに支配されている。

 

 

夢から、醒めない。

 

 

夢を追う。それは非常につらいことであって、(当人にとっては)善良であるはずの自分自身が、(なぜか)苦しみを背負いながら生きているという現状を肯定するために、(来るかもわからない未来に)幸いを見出す行為である。

夢なんて負いたくなかった。目標なんて持ちたくなかった。だって、私が未だにそんなものに縋り付いているのは、単にこれまでに夢が叶わなかったからに過ぎない。

夢を叶えているのであれば、それをたんと享受すればいい。

 

それができないからこそ、いつまでも陰鬱な日々を肯定しながら、未来を見ている。

 

「この長い道の向こうにある キラメキを ほんの一瞬で良いから 今すぐ 輝いてくれ」

これはカジヒデキの『Queen sound babbles again』からの引用であるが、私はいつもこの歌詞を思いながら生きている。この苦しみが長く続いたっていい。でも、ほんの一瞬だけでもいいから将来にある輝きを見せておくれ。

この苦しみに能うだけの喜びよ、たった一瞬だけでいいから、いま現実化してくれないだろうか。

そうすればこんな陰鬱な日々を耐え抜く力を私は得られるだろう。