ココボロだとか好きだとか

大学院生による独り言と備忘録

追々

道をゆく

 

 

一日かけて服を選んだ。赤い服が好きなのに、あんまり派手な恰好だと受けが悪いかなんて考えながら、できるだけ無難で可愛らしい服にした。

 

ずっと人と一緒に行きたかった場所に行った。私は面白い話をするのが上手ではないから、いろんな話を聞いていた。話を聞くのは好きだ。

ああ、好い人が恋人の話をするたびに居た堪れない気持ちになる。どうでもいい。そう思っていたはずなのに、今更になってこんな考えに縋るなんて。

 

道に迷いながらおしゃれなイタリアンへ向かった。私は土地勘のない都会が苦手で、地下やら地上やら二階やらを経由して、線路を跨いで道路を超えていくようなところはどうしても迷子になってしまう。地図は読めるってのは言い訳かしら。平面はいける、3Dは無理。

美味しい食事

 

主目的のプラネタリウム。360度の臨場感というのは伊達ではなくて、動きを意識したカメラワークなんかは腹の底からゾクゾクくるような違和感が体中を回り、叶う事ならば横にいるその人の手を取りたかった。けれど、自分勝手な好意で相手に触れてしまうだなんて強制、私には肯定できなかった。数十分もの間、私はたった数十センチの隔たりすら超えることはできなかったのだ。酔った時には迷わずその人の手を取るくらい飢えているのに、素面なんかでは理性があまりに上手く働き過ぎてしまう。

プラネタリウムの番組は安直な構成で、4つの小話が実はつながってるだなんて月並みなもの。描き出されるヒロインが毎回赤髪の時点で気が付くようなそんな感じ。あんまりお涙頂戴てきなお話は好きではなくて、その意図に気づいた瞬間に白けてしまう嫌いがある。そう思いながらお話を聞いていたのに、こと恋愛の話なんかを言われると悲しくなってしまい、右隣にいるその人を視界から遠ざけるために、やけに背景なんかを見まわしたりしてしまった。

 

 

ああ

中途半端なごっこ遊びや、分かりきった結末を意図的に無視した期待だなんて、もっと心を傷つけるってことが明白なのに、どうしてこんな予定を立ててしまったんだろうか。それと同時に、私にとって恋愛だなんてものがまたもや不安定なものに感じられ、これ以上何を望めばいいのか分からなくなってしまった。

 

こんなところでいうのもアレだけれど、肉欲なんてものが私は嫌いで、自分自身の中に生来的にそんなものが渦巻いていると思うと自己嫌悪に陥ってしまう。だから私は有酸素運動が好きで、生来的な欲求を自らの信じる精神なんぞでもって押し付けてしまう感覚に依存している。

綺麗なものを見たい、好いものに触れたい。たったそれだけの感情で生きていたいのに。どうしてそれ以上を願ってしまうのだろうか。

プラトニックな想いを持っていたい。精神信仰を続けてみたい。

ああ、このまま友人と思われているならそれで十分な気がしている。気がしているのだ。だけど悲しくなるのは仕方がないのかな。

昔は、手に入れられないものを見るのなんて嫌いだった。けど今は、手に入れられないと分かったものをしきりに見てばかりいる。手に入れられないとしても、見ているその瞬間だけは幸せだと思うから。ああ、この瞬間幸せならもう、いいでしょう。あと一ヵ所一緒に行くことができたら、私はもっと幸せかしら、それとももっと悲しくなるのでしょうか。