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大学院生による独り言と備忘録

『感性は感動しない』に寄せて

『感性は感動しない』

この本を読んだ。1章はとても面白かった。2章以降はあくまで、1章を書いた作者とは何者なのかを語るような文章で、not for me という他ない。悪い本ではない。ただ、私には1章のみで十分だった。

 

表題の通り、感性は感動しない。私もこの言葉に同意する。

「感性を磨く」とある人は言うが、著者はこの言葉にも岡本太郎を引用しながら疑問を投げかけている。著者は「感性を磨く」なんてものはある種の因果応報思想のようなものではないか、と語っている(P13)。

 

私も思うに、日本人は過程を重視するきらいがある。努力、友情、勝利は少年漫画の三大要素と言われるが、このうち、努力は言うまでもなく過程の重視で、友情だって、たいていは仲たがいからの仲直り、もしくは、かつての敵が味方になるといった構成がいくらでも存在する。確かに胸熱だ。でも、芸術にまで過程は必要だろうか。

 

感性は感動しない。感性は磨けない。私はこの言葉を初めて見た時、心の中にあった漠然とした考えが、初めて骨のある生き物になったように思われた。だって、感性なんてものは性質であって、それ自体が感動するわけでもなければ、性質を変えてやれるわけもないから。能力なんてものは所詮、あらかじめ決まった性質という名の基礎に立てられた支柱の様なもので、能力を伸ばし、壁をつけることはできれど、後から基礎をどうにかすることなんて叶わないのだ。

しかし、確かに絵を見た時の感想なんてものは、それまでの経験によっていくらでも変わり得る。ピカソ(芸術論でピカソとかデュシャンピサロゴッホなんて引くと素人っぽいよね、閑話休題)の絵を見て感動できる人間なんて一握りで、何も知らない少年少女にピカソを見せたところで、その凄みを理解することはできないだろう。きっとモネやらドガを見せた方が幾分かましに違いない。

では、ピカソを見て感動する人間なんてものは、やはり感性を磨いたのであろうか。私はそうは思えない。感性を磨いたのではなく、自らの感性以外の枠組み、もっと言えば学問領域としての芸術史、芸術論が彼らを感動させたのである。

 

 

古典美術なんてものは、その名の通り美術であった。しかしながら、もはや芸術と美術は異なり、artなんてものはもっと異質だ。美術が美学に基づくのであれば、芸術は芸学に基づくのであろうか。artは単なる快楽や欲求に端を発し、いつしか学問にまで上り詰めた。考古学時代の洞窟壁画なんてものは欲求に過ぎず、見る為に描かれたのだ。そんなものが時を経て美しいものをいつでも見られるように芸術になり、今では目的と手法が逆転し、描くために描かれている。ここでいう描くという言葉は、単にpaintingというよりかは表現全般を指すといった方が正確であろう。

 

 

我々が芸術論を学ぶのは、感性を磨くためではない。感性のみでは覆いきれない領域を芸学、美学を用いて補足することによって、新たな視点を得るのである。

生れながらの人間にピカソなんて見せても絶対に感動しえない。彼が偉大だとされるのはそれまでのartの枠組みを破壊し、拡張したからだ。そしてその事実に感動するためには、学問をせねばならない。artを学ぶんなんてことは、感性を磨くているわけではなく、生まれながらには持っていない新たな視点を得る為であって、ナニカ高見にあるものを理解するためではない。異質なものを受け入れる土壌を作るに過ぎないのだ。

 

 

 

 

 

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