ココボロだとか好きだとか

大学院生による独り言と備忘録

土偶と現代美術と

文章を読むと文章を書きたくなる。

一昨日もそう思いながら電車に揺られ、自宅に帰りキーボードを叩くと上手くいかなかったからあきらめた。そして翌日、再び大学へ向かう電車の中で昨稿を書き上げたのだ。

 

作品を見るとき、その批評とはどうあるべきか。先日初めて五島美術館へ伺った。それはもちろん毎年GWに1週間のみ限定で公開される『源氏物語絵巻』のためであったし、目的も果たせた。しかしながら、私には何もわからなかった。その内容も、その価値も何一つ。

批評とは、作品に対して行われることとされているが、その実、内容は全く作品とは切り離されている。どちらかと言えば、作品から想起される内容こそが批評であり、作品はあくまで媒介物に過ぎない。作品素材をメディウムと呼ぶが、これは作家の表現を伝達する中間物=メディウムという意味であろう。しかし、もっと言えば、観覧者の内側において、頭の中を"作品というレンズ"で見て内容を語ることが批評であり、作品とは観覧者にとってのメディウムであるともいえるのではないだろうか。

 

作品の価値を決めるのは作家ではなく観覧者だ。であるからして、作品そのものに価値は存在しない。以前も語ったことであるが、観覧者による価値判断とは学問領域としての美術史・芸術論に大きく左右される。ピカソを子供に見せたってだれも感動しない。なぜなら子供は美術史・芸術論に対して全くの無知だからである。ピカソに感動する人間とは、美術史を学び、芸術論を語る人間だけである。なぜその表現が為されたのか、その必要性とは何であったのか、それらを語ってはじめて我々はピカソの偉大さを認識し得る。古代と言わずとも、中世の人間にですら、ピカソを見せたとしてだれもその価値は分からないだろう。しかしそれはピカソに価値がないということを意味するのではない。批評を行う人間が共有するべき前提を持ち合わせていないというだけである。

 

 

物質は原子からできている。

それは、文明の滅亡が避けられなくなり、また蘇るかもしれない人類に一言だけ遺言をのこすとしたらなにを遺すかという問いに対するファインマン(Richard P Feynman : 1918-1988)の言葉とされている[1]。いつしか我々人類は、自らの生物学的な進化よりも文化的進化が先行するようになってしまった。この500万年をかけて培ってきた文化というものは、もはや先天的な感性・価値観によって補完することは叶わない。事実、我々の目(認識)はしょっちゅう錯覚を起こすし、科学でいえば直感に反する事象なんてものがいくらでも存在する。原子論なんかはその代表で、人類がこの発想を得、そして実証するまでにはるかな時間がかかったレウキッポス(デモクリトス(一般に原子論の祖と言われる古代ギリシアの哲学者)の師)が紀元前5世紀に原子論を唱えたとされるが、科学的に受け入れられるのは17世紀であろう。ファインマンはこの文化的な進歩が非常に大きいと考え、原子論を最初から持つ文化に希望を託したのだろう。

 

 

では、美術においてはどうだろうか。

美術だって人類文化の一要素である。つまり、科学なんかと同様に、もはや文化は生来的な直感を追い越してしまったのではないか。見ればわかる、勉強なんてしなくてもいい、感性を重要しろ。そんな言葉は全くの嘘ではないか。

感性は感動しない。感動するのはいつも理性である。

なぜ理性が感動するのか。それは、もはや我々は理性でこそものを見るからである。たしかに、感性で判断できる問題だってたくさん存在する。しかし、そもそも理性と感性は背反ではない。積集合が存在するが、理性にのみ係る要素があっても然るべきである。

そして、古来の土偶なんかの時点でもはや文化の排除はできない。当時の考えを基に土偶が作られるのであれば、現代人のメガネと、当時の人々のメガネではまったく見られるものが変わってしまうだろう。当時の人間が大切にした土偶のすばらしさを、おそらく多くの現代人は分からない。だからといってあなたは土偶を否定するだろうか?美術ではないというのだろうか?

では逆に、現代美術について何を思うのだろうか?あなたは現代美術を否定するかもしれないが、そこに土偶との違いが存在すると主張できるか?

 

 

私は確かに、勉強という言葉の持つ意味に焦がれているきらいがある。今日もペダンティックなこんな文章を書いているし、美術やなんやらについても、とにかく本を好んでいる。その考えの根底には、話せばわかるというものがある。

私の専門はコミュニケーションであり、中でも原子力のバックエンド、廃止措置や廃棄物処分を専門にしている。いかにして、立場の異なる人間と共によりよい意思決定を行うことができるのか、を研究しているのだ。

根本、私は人間を信じている。はるか昔に語ったが、共産主義を信奉している。共産党は支持していない。私は、キリスト者神の国を信じるように、理性主義者としてだれもが平等で美しい世界を信じている。しかし、それは決して現世としてではなく、理想の世界としてである。つまりそれが、私にとって人間を信じているということなのだ。

といいつつも、工学部卒の私には理想よりも現実の方が重要である。現代の原子力における”理想論”(核のごみ(ちなみに核のゴミという言葉は専門家として好まない、高レベル放射性廃棄物である)を捨てるなとか宇宙へ飛ばせとか)なんかはバカバカしく思っている。そんなことで解決するのならば、私だってそれを選ぶからだ。

でも、話せばわかると思っている。話して現状の認識を同様にすれば、お互いの譲れる場所を見つけ出すことができると信じている。

閑話休題

 

何の話だったか、ああ『源氏物語絵巻』か。繰り返すが、私には何もわからなかった。なぜなら語るものがないから。それは作品にではなく私の内側にである。別で展示されていた『愛染明王坐像』なんかはまだ語るものがあった。が私には源氏物語絵巻を語るだけの語彙がない、引き出しがない、比較するものもない。だから私は語れなかった。私には田舎の史跡(地元のほぼ跡形もないただの原っぱであり看板がなければありがたみのかけらもない)のようなものに感ぜられたのだ。でもそれは源氏物語絵巻に価値がないのではない。私がそれを観るだけの素養がなかったのだ。

 

現代美術はそういった素養を取っ払い、古典芸術の持つ権威性を剥ぎ取り、美術を日常・一般のものにしようとした。しかしこの令和の時代から見ると、古典芸術の方が一般に受け入れられ、却って現代美術こそ、素養がないとわからないトクベツなものだとみなされているようである。

 

 

気づけばまた2,500文字を超えてしまった。長い文章を書いてしまってごめんなさい。短い手紙を書く時間がなかったのです。

とにかく言いたいことは、我々人類にとって、生物学的な感性よりも文化的な理性の方が重要ではないかということと話せばわかるという事だ。以上