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大学院生による独り言と備忘録

多摩川のライオン

多摩川にはライオンがいる。

 

タマゾン川と呼ばれるほど生物多様性に富んでいる東京の一級河川多摩川。神奈川の田舎から東京の都会までを流れるその川には、多くの人間が不法に生物を放流する。また、都市部から流入する排水によって冬季においても比較的温暖な水温が保たれることとなり、観賞用とされるような熱帯魚の類も越冬が可能となってしまった。

こうした背景により多摩川生物多様性は盛隆した。

多様性の時代。そんな言葉に掛けて話すといかにもよろしいように聞こえはするが、環境においては従来のモノを守るというのが第一義であり、本来の生態系が破壊されるてしまった現状を憂うべきであろう。

 

 

そんな多摩川にはライオンがいる。もちろん、それは本物の生きたライオンではない。

サビれた公園にあるような陶器製の、遊具のライオンである。

多摩川のライオン

彼は多摩川のほとりに一人で佇んでいる。二子玉川から行くと、玉川高架橋を少し超えたところに、『孤独なライオン』がいるのだ。Google Mapにも24時間営業の観光名所として登録されており、オンラインでも彼の元気な姿を見ることができる。

 

彼が孤独となったいきさつについては、デイリーポータルZの記事が詳しい。リンクは第1話であるが、第3話まで存在し、実際に現地調査まで行って彼の過去・人生を研究している。

 

 

正直言って、私は彼の人生というものに興味はなく、ただ単にその(False)シュールな情景を面白がっているだけである。ナンセンス、それはある種私にとっての目標の一つであり、偶然性や意図の排除に焦がれる部分が未だに心に巣くっている。しかしながら、偶然や意図しない行いだけでは何も為されない。そこにははっきりと血の通った必然性が求められるのだと考えている。

たとえば、私の敬愛する3Dアニメーションに『ポピーザぱフォーマー』にある。私がこのアニメーションを好きなのは、ナンセンスでいながらもはっきりとした必然性が存在するからである。ポピーザぱフォーマー自体がナンセンスへの挑戦であり、死のシュールさ・そして特にそのナンセンスさを表している。

映像自体は非常に簡素で音楽も潤沢とは思われない。しかしながら、限られた資源の中で世界観を作り込み、答えを導き出しているその姿には価値を感じずにはいられないのだ。純文学もそうである。その主人公や登場人物はみな単純なルールに従って日常を過ごす。彼(女)らの行動は大抵予想されるものである。それは、複雑怪奇で理論によって支えることのできない現実世界を生きる私達からすればあまりに簡単な世界である。この光景こそナンセンスなのである。

 

純化した世界で単純化した心理作用によって単純化した答えを導き出す。それが芸術であるのだとすれば、作品とは回答である。

 

さて、多摩川のライオンは芸術的であっただろうか。ここまで語ってなんだが、そうは思えない。だって、そもそもあのライオンには必然性などなかった。単なる遊具の一つに過ぎなかったし、設置に思想があるとも思えない。陶器の遊具なんてコストや場所の都合に過ぎないし、ライオンやパンダ、ラクダ(こいつだけ浮いてる気がする...)なんていうラインナップは人気な動物を並べただけであろう。

しかし、それがたった一つだけ川辺にいる姿は(False)シュールだ。あのライオンはいかにも意味深そうにその場に佇んでいる。彼に何かしらの意味を見出そうとすればできるだろう。けれども、それをしてしまったらもはや芸術も何もなくなってしまう。現代の科学が民衆心理に侵されてしまったことと同じように。