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大学院生による独り言と備忘録

窓越しの花

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窓越しの花

この写真とこの題で短編小説を書きたいと思っている。

私には甲斐性というものがないから、どうやったらしっかりとした文章を書ききることができるのかわからない。

好きな小説はいくつかあり、短編でいえば、三島由紀夫の「雨の中の噴水」や「詩を書く少年」、太宰治の「新郎」など挙げればきりがない。いくつの本を読んだって文章を書けるようになるわけではない。分かっている。でも、私だって同じような文章を書いて、芸術を行いたい。純文学とは芸術であるだろうから、純文学を志したい。

 

テーマはそう、「私の発見」にしよう。小林秀雄であっただろうか、かつて「私は料理人にも、詩人にもなることができたが、私以外の誰かになることはできなかった」という旨の文章を書き残したのは。ひとつの驚きである。可能態。私は様々な"モノ"(便宜上の名である)になることができる。その一方で私以外の"存在"になることはできない。

私とはたくさんの"モノ"によって構成される。「私は●●である」のように私を構成する"モノ"をいくつも数え上げることによって、やがてほかの存在と区別してやろうという魂胆だ。これはいうなれば、生物学の分類のように、界、門、綱、目、科、属、種と分けていくようなものだ。確かに存在が無限でなく有限であれば、簡単に(手順の個数ではなく手法として)存在を分けて定義することが可能である。

では逆のアプローチならどうだろうか。私は高校生ではない。私は運転手ではない。私は詩人ではない。このように、「私は●●である」は「私は〇〇ではない」と置き換えても、どうも都合がよさそうである。その割には、あまりこの手法は一般に見られない。

小説における手法とは、どれだけ生き生きと主人公を映し出すか。その周辺の空間を彩ることができるかに終始しているといってもいいだろう。

純文学とは芸術であり、芸術とは哲学であるからして、純文学とは哲学である。三段論法。

ならば、私は、主人公の定義を行わないでお話を進めよう。少年は花に憧れていた。それ以外の断定を彼に対して用いないことにしよう。代わりに「少年は〇〇ではなかった」という文を彼の描写に用いることにしよう。

そして前に挙げたテーマのように、少年の内に秘める可能態と現実との隔たりや彼が理想を否定されながら、結局彼以外の誰にもなることができないという事実を書くことができればよいなと思っている。