ココボロだとか好きだとか

大学院生による独り言と備忘録

nomaddと一汁三菜椀から、日常生活における食器のデザイン性と機能性の限界についての考察

gatomikio-store.com

 

昨日twitterでもつぶやいたが、我戸幹男商店(ガトミキオショウテン)の一汁三菜椀に感動した。

 

もともと食器が好きで、『No.9 CAMUSのカラフェ』でも語ったが、一人暮らしをするのであれば、Narumiの白色のnomaddで日常使いの皿をそろえたいと思っていた。Eileen GrayのE-1027に出会ってから、モダンデザインに憧れている。そもそも無駄のないデザインが好きなのだが、nomaddはすごい。クラシカルなというか普段目にするような器は大抵、リムと呼ばれる縁幅が大きく取られる傾向にある。しかしnomaddはどのサイズの皿であっても、同じだけの細い縁取りのみで曲面をほとんど利用しない。こんな話、何だかSEIKOのデザインコードを思い出すのは私だけだろうか。

nomaddの、一切余分な装飾がなく、艶やかな素材を美しく引き立てるこの必要最低限のデザインは、日用の食器の限界を映し出しているように思われる。この限界とは悪い意味ではなく、装飾を行わないことに潜む器性の強調を意味している。器の機能性を損なわず、通常食材を強調するために採られる、いわばキャンバスの余白部分の機能を持つリムをなくすことによって、つまり正攻法とは全く逆の手法を執ることによって、一般の食器が行うことができないほどの強調を却って手にしたのである。

 

 

もう一つ、このnommadは重ねられるのだ。なんだ当たり前のことを言うな、と聞こえてくるがそうではない。

narumi.meclib.jp

以上はNarumiのカタログからの写真だが、同じ直径を持つ器同士を重ねられる。12cmのプレートは、12cmのボウルの蓋にもなり得るのだ。

スタッカブルな器は少なくなく、様々存在するが、重ねた時の無駄のなさもnomaddの良さだと思っている。

 

気が付いたらnomaddの話になってしまった。本題は我戸幹男商店の一汁三菜椀についてだ。

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この椀は写真一枚目のようにスタッカブルだ。なんだよこいつスタッカブル好きすぎだろ、って言われると返す言葉はないのだが、とにかくいい。あまり大きな器ではないが、この一つに見える器が五つに分かれ、一汁三菜という日本の伝統的(伝統的な食事なんてせいぜい江戸からなので大した伝統でもない)な形を賄うのだ。つまりこの一式だけで日常が完成し、そしてそこに無駄が一切ないのだ。同心円で削られたそれぞれの漆器にはもちろんほとんど装飾性がなく、ただただ機能に重きが置かれた食器なのである。

男性には物足りない容量に思われるが、「人は目で食事をする」と言われるように器いっぱいにもりつければ、きっと満足感は損なわれないだろう。

 

私はミニマリストではないが、もしもミニマルを気取るのならばこの一汁三菜椀の黒を購入し、日々を送るだろう。

これまで、和食器にはあまり興味がなかった。なぜなら装飾の排除が困難であるからである。和食器は伝統的な形式(伝統的な食事なんてせいぜいry )形に固執している。金粉や螺鈿を用いた装飾は実に美しく、憧れではある。しかしながら日常生活に紛れるかといったら別問題である。日常の工芸はおおよそ西洋技術や機械化工業により淘汰され、伝統などというものは大抵高価なモノに追いやられた。というより、伝統と工業が生存競争をした際に、伝統は単価を高めることに活路を見出し逃げて行ったのだ。そのもっともな例は和服である。日常で和服を着る人々がいるのはその通りであるが、大多数の人間にとっては、和装とはハレの日(非日常)に身に纏う、特別な、そして高価な衣服になってしまった。そこにケ(日常)は存在しないのだ。

伝統とは、古来から存在し言葉では伝えられない先人たちの導き出した回答である。ある種の答えである概念や生活を後世へと受け継ぐことができる一方、新たな答えにたどり着くことはない。伝統が常に正答ではないし、かといって革新がいつも正しいわけではない。しかしながら、どちらか一方のみに終始するのはあまり得策ではないとおもうのだ。

我戸幹男商店の一汁三菜椀は伝統的な山中漆器という枠組みの中で、その類稀なる技術をもってして、そして全く新たな想像力に誘われ、一汁三菜という形式を現代的な製品へ押し上げた。nomaddが持つ美しさは装飾性の排除と機能性の強調にあるといったが、この一汁三菜椀も同様、装飾性を排除したうえでの機能性の追求、伝統の保持そして伝統からの脱却という観点を有している。これが止揚なのであろうか。

 

私はRosenthalのスタジオラインの理念である「日常に芸術を」という言葉にひどく感銘を受けているため、食器に関してやけにこだわるきらいがあるのだろう。私から見て、この我戸幹男商店は上記の言葉と全く同じ価値観を有していると思わざるを得なく、日常生活に伝統と芸術とを持ち込もうとした回答が、この一汁三菜椀なのだと考えている。

金沢の山中温泉ということで、関東に住む私にはやや遠いが、購入するのであれば本店に伺いたい。3万円くらいする食器であるが、一つ6,000円と思えば安いかもしれない。いや、十分高いか。

 

このブログは趣味の開拓と備忘録と言いながら、欲しいものや買ったものの話ばかりしている。そろそろカメラの話に戻りたいと思う、今日この頃である。