ココボロだとか好きだとか

大学院生による独り言と備忘録

Cut My Nails , Girl 和訳 (No Buses)

NoBuses のCut My Nailsの和訳です。

NoBuses自体、高校の頃から(高校の終わり頃に出てきた印象)好きで結構思い入れも深いです。もともとGirlがバチッとハマってCut My Nails等々Upと同時に聞いていて今でも好きです。Cwondoも好きです。

 

例によって歌詞は著作権の都合上乗せませんが

 

以下和訳

 

Cuy My Nails

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私達の関係の話なんだけれど

あなた知っていることと私の知っていることとはいつも違うのね

時間が過ぎてゆく、なんだか気持ち悪いわ

嗚呼、あなたの見る景色と私の見る景色はいつも違うのかな

 

あなたは他の誰かの名前を呼ぶんでしょう

そして気がつくんだ

もう私はあなたのものでは無いんだってね

 

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こんなところでしょうか、あまりに短いのでおまけにGirlの和訳もしておきましょう。

 

Girl

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私はティーンネイジャー(10代)の女の子だった

あのときの私はいつも走り回っては

"もうおしまい、おしまいなんだ"なんて言っていた

 

おしまいにするの?もう今夜終わりにするの?

 

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こんなものかなと。

個人的にはGirlと続いてcut my nails はヒーロというよりかはヒロインっぽいなと思っております。

私の個人的な体験 ( リンクは冗談ですが) としては、しばらく会えない間に心変わりのしてしまった恋人を想う女の子ってのがCut My Nailsのヒロインのイメージです。

Girlのヒロインは高校生くらいの頃を懐かしんでいる女の子。若さできらきら輝いていて生き急いでいた日々を懐かしんでいるイメージです。

 

それでは、cut my nails の話に戻りましょう。1節目の最後の文。これは誰もが考える内容だと思いますが、シンプルな文章がより中身を引き立てているのではないでしょうか。私は常日頃、恋人には私を分かってもらいたいと願い、私は恋人を分かりたいと希っています。こんなことは私のエゴに過ぎませんが、おそらく現実的に可能なものではないことは確かです。だって見えるものなんて言うのは人によって全く異なっていて、同じ景色を見たからと言って同じ光景が見えているわけではないのですから。クオリアまで行くとやや過剰な気もしますが、まったく同じだなんてことは叶わなくて、これまで培ってきた価値観や生成されたバイアス、思考の癖、タイミングのずれ様々な要因により"全く同じ状況を見る"ことは不可能なのでしょう。

だからこそ、共同活動で重要なことは価値観をすり合わせることなのだと思います。私には多くの"恋人と行きたい場所"や"一緒に見たいもの"、"食べたいもの"、"聞きたい音楽"があります。それは私の価値観を生成するのに非常に重要な存在であり、私が最も大切にしていたモノといって間違いないでしょう。価値観を共有するためには、言語に頼るだけではなく、より感覚的で生得観念的なナニモノかが必要ではないかと考えているのです。

昔話ですが、かつての逢瀬に私は最も好きな歌を共有した経験があります。恋人と共にそれまで誰にも教えたことのない宝物のような一曲、The ShirellesのWill you still love me tomorrow を聞きました。あれほど幸いだった瞬間は他にありません。その詩が持つ意味や音の魅力、それらは決して言語化して共有するものではなく、感覚的であるからこそ、官能的で個人間の関わりをより強く意識させるものであると思うのです。

同じ場所で同じものを見ようとも、受け取る情報は全く異なってしまう。そんなことを了承したうえで、それでもなお共有しようとするその姿勢にこそ意味があるのかもしれません。

 

Girlの"everything is, everything is gone"の一文。いまいち適訳はできていないと思うのです。everything have gone ではなく、is gone。"終わった"というよりかは"終わらせられた"の方が意味合い的に近いのではないかと思っております。つまり、能動的ではなく、受動的だという事です。とはいえあまり冗長にしてしまっても仕方ありませんので、おしまいってところにしておきましょう。

いまから振り返れば、ティーンネイジの時に感じた絶望なんてものは大したものではなかったように思います。しかしながら、当時の私にとっては自分自身の世界を揺るがす大事件であった。それに間違いはありません。なんていうと、私がたまたま幸いであっただけかもしれませんので、あくまでn=1の意見ですが、あまり気に病む必要はなかったのでしょう。

思うに、悲劇のヒーロー/ヒロインぶってしまう嫌いがティーンネイジにはあるのです。感受性豊かに生き、感傷的に生きることができる青春の日々はなににも代えがたい宝物になるでしょう。ですから、大切なものを大切に思うと同時に、大切ではないものを大切に扱わないでいる必要もあるではないかと思うのです。

 

ちなみに和訳の後に長文お気持ちを書いている理由ですが、引用と言い張るためです。法律には明るくないので全く意味はないと言われればそれまでなのですが、まあ何もやらないよりかはと思い長々と書いております。

 

With or Without it も訳しました。それ以外もどんどん進めていくつもりです、気が向いたら。

taro0219.hatenablog.com