一日に描書くことができる文章の量には上限があって、私はいつもその分量を無駄に消費している。
というとなんだか仰々しい。そもそも、時間が有限であってそれを消費して何か行動を起こす以上、一日に為すことができる量に上限があるのは当たり前である。
演繹は論理値を増やさないと論理学は語るがまさにその通り、当たり前の前提から当たり前の結論を導き出したのか。
モノを書く度に、インプットが無ければアウトプットが不可能なのだと身に染みている。論文を書く度に、いくつもの参考文献に目を通し、自らの思考の穴を埋める、あるいはその細い枝の支持を作る作業を行っているが、それは単に新たなものをみつけようというよりも、どちらかと言えば、これまで自分の体内にあったのにもかかわらず、はっきりと言語化できていなかった概念を、他者の言葉を借りて初めて表在化させるといった作業である。
このブログの多くの記事は「〇〇を買った」だとか「〇〇を見に行った」とかいう単純で短い文章で始まことがおおい。それは話始めるきっかけがないから。ものの始まりには何らかの糸口が必要で、書く内容が決まっている場合は大抵そうなるのだ。
それとは異なり、本稿のようになんらかの主張やちゃんとした(?)文章から始まる場合は話題を決めずに語りだした場合の記事である。
こういったものは、徒然なるままに、心のままに文章を綴ることで作られる。私は、書けない時に無理に文章を書くことは、なるべくしない。乳を沸かすとできるあの膜を掬い上げるように、私は頭の中で文章を作る。それには無理に添加剤を入れて凝固させる作業というものは、あまり似合わないのだ。
私は最近いつも陰鬱で、それこそ「雨の日」や「追々」で描いたような心持で生きている。私は、文章を用いてその時の気持ちを吐露することによって、自らを毛づくろいしてできた気に食わない毛玉を吐き出すのだ。気持ち悪い。
自分を信じろだなんて言いませんし、ありのままのあなたが美しいと、私は思いません。自分を信じたところで人間なんて怠惰な生き物であるし、ありのままのあなたは美しくもなければ素晴らしくもありません。(No buses / Alpena 和訳 より自己引用)
この言葉は私の中の価値観の非常に多くを占めていて、私が自己否定を行う場合、この考えに基づいていると言ってまず間違いないだろう。ありのままの私は美しくもなければ素晴らしくもない。だからこそ私は美しく生き、素晴らしく生きようと思うのである。
私は、この世のすべての出来事が奇跡であるという主張が嫌いだ。確かにそれは間違いないだろう。確率論的に言えば、この世のこの状態が生じたこの現実を奇跡と呼んで差し支えないと思う。しかし、それはあくまで現状が生まれる確率を見ればという話である。コインを投げれば必ず裏か表が出る。それと同じように、世界が始まったから必ず何らかの目が出る。あとからこの出目を見れば、まるで奇跡の様な確率であったとしても、出目自体は必ず何かい出される。つまり出目がなんであったかを語るなんて行為は意味なんて持たず、単なる現状観察に過ぎないのだ。だからこの出目となる確率が奇跡的であろうとなかろうとどうだっていい。現在なんてどうせに二度と生じ得ないのだから、出目がなんであったかなんて知ったところでどうしようもないのだ。
私は、この世のすべてを奇跡だとも、美しいとも思わない。当たり前のこの醜い世界をそのまま肯定しているのだ。無駄な装飾なんてしなくても、私は世界を認めることができるから。
だから、ありのままのあなたは美しくもないし、素晴らしくもなくていい。私はそれをそのまま肯定することができるから。