ココボロだとか好きだとか

大学院生による独り言と備忘録

チョコレートの...

チョコレートの音楽

 

 

好きになることに理由はいらないと思う。

けれども何かを好きだと思い込むことは、特定のモノになにかと理由をつけて好きに落とし込んでゆくことは、心の平穏をもたらすと考えている。

 

チョコレートが好きだ。

 

といっても昔から好きだったわけではない。むしろ小さい頃は誕生日やX'mathでケーキを買ってもらうたびに、チョコレートが好きな兄と、普通のクリームが好きな私で争ったものだ。食の好みに関しては私と兄で大きな隔たりがあった。私はカレーや焼きそばといったものが特段好きではなく ( 嫌いではないが”何が食べたい?"という問いに対して嬉々として答えるほど美味しいものではない、もっと美味しいものが他にあるだろうと考えていた ) 、兄はそれらをよく好み、その上私の好きな魚やエビ、貝などが嫌いだった。

だからこそ我が家の食卓にはカレーがよく並び、魚などは殆ど出なかった。

閑話休題

 

ケーキの話だが、全く同じ理由 ( 兄はクリームが好きではない ) でチョコレートケーキばかりが選ばれた。私は大抵のものが好きではないが嫌いではないため、何でも食べることができた、そして私の好きなものは往々にして兄が嫌いでいたため、あまり食べることはできなかった。

そのため私はあまりチョコレートに対して良い思いはかったし、今でもチョコレートケーキは好みではない。

 

チョコレートが好きになったきっかけは、まともではないと自分でも感じているが、一人の歌手の影響だ。

カジヒデキ

私は好んで平成初期の渋谷系音楽を聞いており、その中でもカジヒデキは思い入のある歌手だ。

青春と呼ばれる時期、高校時代にカジヒデキと出会った。彼の曲はいつまでも爽やかで、詞はいつまでも甘ったるい青春ぶったものばかりだった。彼もいまや50を超える年齢であるが、未だその特徴は変わらず青春、爽やかに囚われた作品を作っている。

そんな彼の詞の中に、しばしばチョコレートが登場する。

ラ・ブーム〜だってMY BOOM IS ME〜』

が特にお気に入りで、

一口サイズのチョコが口の中とろけるよ

この詞は私が青春時代、叶わぬ恋をしていたときによく聞いていた。ラ・ブームはそれ自体が底抜けに明るい詞で、肯定を繰り返すような、これまでの日々をみんなを愛してしまうような、あの渋谷系の王子を思わせるような多幸感をもたらす詞だ。

いまいち満足を得られない日々を過ごしていた私にとって、いまだ得られない幸せとは、彼が言うような、甘い甘いチョコレートが口の中でとろけ広がっていくようなものだと思った。

 

それから、進学し恋人とも別れ、独り、憧れを忘れられずにいた私はひたすらに前を向くことを選んだ。欲しい物が得られないのなら、それが得られるように成るまで努めればよいのだと考えていた。手の届かないところに憧れがあるのなら手が届くほど立派な人間になればいいと思った。

もちろん良い人間になれば手が届くだろうなどと考えたわけではない。理系的に言うと必要条件と十分条件の違いであり、努めても幸いを得るには十分ではないが、幸いを得るためには努めることが必要だと常日頃思っていた。

運動も勉学もからきしだった私はプールや公園に水泳やランニングの為に足繁く通うことで体を作り、学業にも励み上位の席次を押さえることにした。コミュニケーションも得意ではなかったから学内で開かれる英会話の講座に通い、週に2,3回は講師の外国人と一対一で、小一時間ほどフリートークをした。夏にはインターンに参加し2つ上の人たちと交流し、プレゼンテーションなどを繰り返した。もちろん理系の専攻をおろそかにしないためにも様々な専門に関わるワークショップや講演会に参加した。

 

心の支えはコーヒーとチョコレートだった。おしゃれな大学生を気取りたかったから。ズボラでも毎日鏡の前で20分は居座り容姿を整えていたし、毎朝グラノーラとヨーグルトを食べ、昼にはカットフルーツを食べていた。昔から夏でも熱い紅茶を飲んでいたから、それをコーヒーに変えて、苦いのは得意じゃないから甘いチョコレートを頬張った。

輸入菓子の売り場によく出向き、色々なチョコレートを買い漁った。オレンジピールは思い出だったから、いろいろな香料のチョコを買い、あまり好きじゃなかったホワイトチョコも何度も試した。

 

私の努めがどれほど有効だったかはいまいちわからないけれど、楽しい日々ではなかった。ただひたすらに、好かれたいがために努めて、前を見るたびに遥か彼方にある夢の遠さを痛感した。

私にとって恋はそういった類のものだった。憧れているから追うだけのもの。むしろ途中で諦めるということが分からず、悪いところがあるから治すのであって、足りないものがあるから補うのであって、叶わないから願うだけであった。

恋をした人の為に良い人間になろうとすることは不正なのだろうか。人に合う前に鏡の前で身なりを整える、同じことだ。その何ヶ月も前から体を整え、話をする準備をし毎日気取って歩いた。実際に人前で気取ったときに不自然にならないように。

私はわたし自身を取り繕ったわけではない。ただ自分自身の価値を高めようとしたまでである。むしろ、欠点を自覚しながら、不十分を感じ取りながら、「ありのまま」などとくだらない標語を提げてみすぼらしい自己を売り込む。そんな人間になりたくなかった。

だって不正じゃないか。悪いところを開き直って笑い飛ばすだなんて、道徳的ではないだろう。人を幸せにするだけの実力があって人に幸せを約束するべきだろう。私は嘘偽り無く、「貴方を幸せにする」という言葉を使いたかっただけだ。

私はだれよりも良い人間だと、私が誰よりも良い人間だと思った人に認めてもらいたかっただけだった。

閑話休題

 

チョコレートの話に戻ろう。

といっても、あの渋谷系の王子の話に。彼の復活は私が高校の頃、『流動体について』が発表され、あの哲学的で難解な歌詞、ソロよりもむしろフリッパーズに近いような音楽が戻ってきた。

SEKAI NO OWARIとのコラボレーションである『フクロウの声が聞こえる』 では

チョコレートのスープのある場所まで!

という歌詞が出てくる。この歌にはそれ以外にも

ベーコンといちごジャムが一緒にある世界へ

混沌と秩序が一緒にある世界へ

 という言葉がある。

詰まるところ、二項対立を肯定するということであり、片方の勝ち負けではなく全てを肯定する、そんなあの頃の王子らしい歌詞である。

ではチョコレートのスープとはなにか。それはこれまでは考えられなかったもの同士の組み合わせであり、世界とは我々が已に知見したもののみではなく、それ以上に様々な可能性がまだ隠れており、しかも身近な者同士にすらまだ解き明かされていない事実が隠されているということを意味しているのだと思う。

 

 

嗚呼だめだ、話がまとまらない。

ただ好き好みの話をしたかっただけなのに。長い手紙を書いてしまってごめんなさい、短い手紙を書く時間がなかったのです。誰の言葉であっただろうか。

すぐ色恋沙汰の文句を言うのは悪い癖。

私はただあの王子のように、現状全てを、過去未来全てを肯定するような強い多幸感をもたらすような文章をツヅリたいだけなのに。

 

チョコレートを頬張るときのようなにっこり優しい時を過ごしたい

『チョコレートの音楽』-カジヒデキ-