ココボロだとか好きだとか

大学生による独り言と備忘録

第100回目にしての雑記録

今回がちょうど100回目の投稿になるらしい。

こんなくだらないブログであれど、一端の物書きを自負しているのであるからして、それなりに、それなりの文章を綴りたいと思っている。

 

このブログと言えば、原子力、服、カメラ、言葉である。

 

原子力について

私は原子力を学ぶ学生であり、これからもそれは変わらない。世間一般から見放されかけていた原子力分野に飛び込んだ理由は、ただ何となくである。

もともとはアゲハチョウなどを育てる生物畑出身だが、このまま生物で食べていける気がせず、物理学、特に実用的な工学へと転身した。その後も、本体であればずっと好きだった宇宙分野を目指したかったのだが、自らの出来の悪さを鑑みてとがることに決めた。そんな時たまたま目に飛び込んできた原子力を選んだのがすべての始まりであったのだった。だからこそ、とがっていれば原子力でなくてもよく、本当に何でもよかったのだ。

結果、私の選択は間違っていなかった。私は、あまり優秀な人間ではないが、とがることによって、周囲の人間よりかはましになった。優秀な人間はもっとの評判良い業界に多く、この分野の同年代に至っては優秀な人間は限られている。だからこそ、ただひたむきに本を読むだけで私は彼(女)らの足元へ手を伸ばすことができた。

私はこの世が、"努力が報われる理想の世界"でなくてよかったと心から思っている。そんな世界なら、私は一生報われないであろうから。

 

 

服について

服が好きである。別に特定のブランドのギークだとか、コレクションを見逃さないようにしているとかではなく、それなりに服が好きである。きっかけは革靴で、初めて手にしたG.H.Bassのローファ―を機に、レザーシューズにハマり、その流れで時計やスーツを好きになった。であるからして、スーツやテーラリングのモノばかりを買い、学生で着ていく機会なんて少ないのに、スーツ10着とホワイトシャツ20着以上を部屋に掛けている。

かといって、こんな調子では日常着がままならないので、パンツに関してはカーゴやデニムを愛用している。ホワイトシャツに合わせるにはもってこいだからだ。

私の中の理想の服装は、夏場であれば、ホワイトのリネンシャツにF2などのカーゴパンツ、レザーバンド・ホワイトインデックスのシンプルなシルバーの時計に、小ぶりのレザーバッグ、レザーシューズである。

最近はブラッグのレザーにネイビーの服を合わせることが好きだ。私なりのモダニズムとダンディズムというのだろうか。とにかく、私なりに普通の服装を好いているのだ。

 

カメラについて

カメラを始めたきっかけも、大したものではない。たまたま、周囲にカメラ好きの人間がおり、始めたらどうだと言われたからだ。彼らはその時期に興味を同じくしただけであって、現在では連絡すら取らない人間であるが、一緒に活動をできて良かったと心から思っている。

そんなこんなで始めたカメラは二眼レフである。もともとスクエアの写真を好んでいたし、どうせなら面白いものが欲しいと思って二万円くらいでミノルタオートコードを買った。宇宙が好きなこともあってコニカミノルタ(一般にはプラネタリウムで有名)が気になっていたこともある。

結局はランニングコストが高いことからcompactカメラを買ったり、DSLRを買ったりしていつの間にか台数が5台になっていた。今はKonica Autorexが欲しい。

写真を撮りに行く暇がないという言い訳をつけてここ最近はカメラを持ち出していないので、夏の終わりからまた再開したいと思っている。

 

言葉について

私はかつて詩を書く少年であった。そして少年が自身は詩人でないと気が付くまでそう時間はかからなかった。

今でも三島由紀夫太宰治を愛読しており、彼らの文書が私にとっての理想である。詩人でいえば、やはり、中原中也を好いている。月並みだが。

文章というものは全く不思議で、頭の中でその端を掴んだ瞬間次から次へと連なって言葉が湧き出てくるのである。言葉を綴るにあたっては、湧き出るその水逃さぬように溜め、その中から使えるものを選び出すようにして推敲していく。

こういった雑多記のようなものはいささか適当に、その時の気分へすべて任している。書きたいときに書きたいものを書くことだって必要で、書きたくないときに書かないでいられるようにいろいろな文章を貯めておくことが大切だと思うのだ。

かつで最も崇高な芸術は詩であり、絵画や彫刻なんぞはあくまで工芸であった。その一方で今となっては何が崇高であるか。もはや崇高などという概念がなくなったのだと私は考えているが、どうであろう。絵画を書く能力も像を掘り出す能力も持たない私には風景を切り取ることしか残っていなかったのである。

私にとって作詩とカメラは全く同一の営みだ。この瞳に移る世界の内、美しいと一般に思われるであろうモノを切り出し、称賛する。ただそれだけの行為である。内なる美を表現するのではなく、自然や他人がすでに表した美をこの目を通して見つけるだけだ。

この世の中で、私よりも美しい表現をする者は幾多もあるが、私よりも美しくこの世界を見ることができる人間はそう多くないと思っている。これが、詩人や写真をする私の矜持であり、価値感である。

私は科学者ではあれど、神というものを信じている。だからこそこの世界は美しく、すべてのモノに惹かれるのである。私にとっての神は、かつてアインシュタインが述べたように、スピノザの言うそれである。

 

 

以上、とりあえずこのブログに取り上げたような分野についての私の心持をだらだらと述べた。

本当はもっとまとまったそれなりの文章を綴りたいものだが、時間がないので許してくれ。どうせ誰も読まないのだから。