ココボロだとか好きだとか

大学院生による独り言と備忘録

KONICA C35 EF 購入

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konica C35-EF

今月頭のMinolta Autocord購入に引き続きKONICA C35 EF を購入しました。

 

今回もフィルムカメラですが、オートコードとは異なり35mmフィルムなので若干ランニングコストが安く済みます。なんと言ってもオレンジのアクセントがかわいい。

レトロな見た目でシボ感とサテン感(言葉がこれでいいのかわからないけれど服飾的にはそんな感じ)がいかにもカメラって見た目で素敵です。後は、世界初のフラッシュ内蔵型と言われている歴史と、ジャンピングアクションでフラッシュが飛び出る感じ。とにかく見た目がいいんですよ。

 

私が購入したのはヤフオク。ジャンク品扱いで1円出品のものを誰とも競らずに1円で落札1,200円の送料を払いましたので実質1,201円。完動品だと8,000円くらいだし、フラッシュがたけなかったりすると3,000円くらいの印象なのでめちゃくちゃ安いですね。

 

購入後レンズ部だけ分解してクリーニング(全くの初心者なので何の保証も技術もなく持ち前の器用さだけで乗り切りました)を行って撮影したところ、ほとんど問題なし。フラッシュも焚けるしシャッターも切れる、露出計も動いているので文句はありません。

ただし、枚数カウンタが動きません。リセットのやり方があるかもしれないし、ボタンの押し忘れとかかもしれませんが、初回撮影時には36枚のまま固定されており残り枚数がわからず不便でした。まあこれくらいは自分で数えればなんとかなるので許せる範囲です。安かったし。

 

作例なんて載せてもしかたないですが、購入からだいぶたちますので少し載せていきましょう。ちなみにフィルムはみなKodak GOLD 200です。

 

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夕景

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木洩れ陽

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馴鹿



フィルム初心者ですが、淡い青の感じと光がきれいに見えるかと思います。

結局一年弱でフィルム4本くらいしか撮影しておらず、技術が上達していることもないのですが、一本目よりかはまだましになったかも。

 

ちなみに今回のコストは

・Conika C35 EF 本体 1,201円

Kodak カラーネガフィルム GOLD ISO200 36枚撮り 750円

・ネットの現像+プリント+CDデータ化 700円

くらいの合計で 2,651円

ランニングコストは1,500円くらいで一枚あたり42円。結構安いですね。

 

MinoltaAutocordも現像してもらったのですが、プリントしてもらえず現像フィルムの状態で到着。キタムラでプリントとデータ化だけしてもらっています。

ただしめちゃくちゃ高い。データ化だけで基本料500円と120フィルムの追加料金が1,200円。合計で1,700円もかかります。もともとフィルムが600円で現像が400円くらい だったので2,700円。一枚で225円くらいですね。めちゃくちゃ痛い出費です。

 

以上

With or Without it ( No Buses ) 和訳

No Buses、With or Without itの和訳です。

どうやら先月までは放射線取扱主任者が、今月は和訳記事が伸びているようなのでついでに和訳しておきます。これでNoBusesが流行ったときも古参アピできるね。

ちなみにタイトルは、「有無に寄らず」とか「あろうがなかろうが」ってのが直訳。私は「僕なんかいてもいなくても同じだろう」みたいな意味だと思っています。

 

例によって歌詞は載せません。一応YouTubeのコメント欄参照と、一部間違いだと思ったところはPVとリスニングでごまかしつつの和訳です。

 

 

以下和訳

 

夜が明けるまで僕はずっと闘ったまま、部屋の中を歩き回ってる

朝になるたび、僕は画一化された形に切り取られるんだ

馬鹿げている

こんなこと、あっている?間違ってる?

 

青い僕の心から"自分らしさ"が持っていかれちゃって

友達もみんないなくなってしまった

 

君なしじゃなにもできないよ

けど君の愛すら全てなくなっちゃって

 

祈るんだ

ボクラハ ミンナ セカイノ シュジンコウ

アリノママデ

おかしいね

待ってよ

もっと時間が必要だ、あれ?そうじゃないかな

 

 

以上

 

なんとなく青春、失恋した男の子ってイメージ。前半が反骨心っていうかロックンロールな雰囲気でだんだん失恋チックな話って感じかな。

無性に文章が書きたくなる日があるんですが、書きたいときに書き、書けないときに無理やり書くことはよろしくないと思っているので、徒然なるままに思いの丈を綴りつつ、和訳で文章量を伸ばしてしのいでいるということです。

 

ところで最終節のカタカナ文字ですが、これは文脈的にカタカナの二文は本心ではないながらも口に出す言葉だと思ったからです。と言いつつも単に私がこの二つの言葉を嫌いなだけかもしれません。

僕らはみんな世界の主人公、ありのままで

これらの自己肯定の言葉は嫌いなのです。別に各々が各々にとっての主人公だとしても、それ以外の人からすれば、お互いがお互い主人公ではないわけであって、私には何の価値があるかもわからない言葉です。後者に関しても、現状に甘んじる人間を私は好きません。もちろん、常に上を見ろとも下を向くなとも言いません。ただ単に、ありのままを受け入れてもらえる場所を探すよりかは、自分を変える方が容易な場合もあるのだと言いたいだけです。

私は他人が可変なものだとあまり考えていません。私にとって嫌いなものはいつまでも嫌いなままだし、私にとって好きなものは大抵いつまでも好きなままだからです。であるからして、他人にとってのそれが可変であるとは考えづらく、対話が可能な時間を考えれば、他人よりも自分自身の方が多く、比較的納得させやすいと思うからして、私は他人の変化を強く願わない。それだけです。

昨今の個性を重要視する風潮は嫌いではありません。しかしながら、それを誰しもに受け入れてもらうべきといった論調は納得できないのです。個性とはお互いをぶつけ合ってバトルするようなものでも、免罪符の代わりに個性の紋所を見せびらかすものでもないと思うのです。お互いが、お互いの個性を知りつつ、一方が譲るとか押し通すとかではなく、話し合って進めていくのが民主主義だったはずでしょう。話し合いによって傷つく人がいるからやめようみたいな風潮が日本にはございますが、傷つくことなんて人が二人以上いれば当たり前で、誰も傷つかないのではなく、誰しもが傷つきつつ、その傷を慮り、だんだんとぞれが少なくなっていく世の中を目指していくべきではないでしょうか。端から誰も傷つかない理想郷なんて存在しないのですから。

以上

二眼レフ(Minolta AUTOCORD)購入

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MinoltaAUTOCORD

念願の二眼レフを購入しました。ミノルタ オートコードです。

カメラデビューがこの子なんでカメラ素人なのはあしからず。

 

正方形の写真ばかり撮る人間なのでカメラを購入するのならスクエアで撮影できる二眼レフと決めていました。正直ランニングコストがばかにならないのでギリギリまで悩みましたが、デジタル一眼は初期投資がそもそも高いのでそんなに変わらないかも。

ただしめちゃくちゃ重いです。本体で1kg。レザーケースをつけると1.3kg位あります。

 

 

購入金額はおおよそ20,000円、ヤフオクにて。

当たり前ですが中古のもの、革ケースや外箱、取説、レンズフード付きとして購入致しました。

最初に買ったフィルムはFUFIFILMのカラーネガPRO400H、120。Amazonにて5本入約5,000円。

あとはネックストラップを2,000円位でコジマにて購入。

 

あらためてまとめると

 ・MinoltaAUTOCORD       20,000円

 ・FUJIFILM カラーネガPRO400   5,000円

 ・ネックストラップ          2,000円

合計27,000円

初期投資はそこそこしましたね。まあ新たな趣味を始めるのであれば仕方がないことかもしれません。

 

ちなみにランニングコストですが、

 ・現像+データ化 1,672円 (カメラのキタムラ) (792+880)

 ・フィルム    1,000円 (Amazon)

以上はフィルム1本の値段です。結構高い。1本撮るごとに2,700円くらい。ただし現像だけしてもらうのであれば800円程度ですむので1本2,000円以下ですね。

また、ネットで現像してもらうと1本400円くらいらしいのでそうするともっと安いです。ただし送料が別途かかるのでまとめて送るのであればいいかも。

 

データ化する機器を購入すればランニングコストを低く抑えることができますが、初期投資はプラス8,000円から30,000円ほど。まあ10本から40本くらいでもとは取れますが、品質はお店のほうがいいかも。

 

 

私はこのまま同じフィルム、キタムラで現像、ネットでデジタル化とかにしようかなと思っています。お金がかかるのは仕方ないね。

そのせいでサブ機(Konica C35-EF)を即座に購入し、今ではデジタル一眼のKonicaMinolta α-Sweet DISITALも所有しています。今欲しいのはKonicaのフィルム一眼とMinoltaのAfのコンパクトカメラ、SONYのcompactデジタルカメラです。物欲。

 

 

お金の話が長くなりましたが、以降は撮影の話。

 

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2021,4,2の撮影写真の1枚(雰囲気)

 

第一印象としては、日常を切り取るのが得意そうといった感じ。いつもは夕焼けとか空だとか日常の中でもきれいなものばかり写真に収めるタイプですが、二眼は別。

こんな曇の日の花壇だとか植木とか普段だったらそこまで気に止めないような些細なことを撮影する方がきっときれい。上からファインダーを覗き込んだだけですが、噴水だとか夕焼けよりも身近な花壇とかのほうがきれいに見えていました。

 

いよいよ作例です。といっても撮影記録が今手元にないので、写真だけ。

フィルムはすべて富士フイルムのPRO 400Hです。

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花壇

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濡れた小径

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木陰

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紫陽花

露光計を持っていないので、スマホアプリで代用。フォーカスはハラキリ型のマニュアル調整ですが、非常に撮りやすい。確かに露光計くらいはアナログモノがあればもっとシャッターチャンスを活かせるのかもしれませんが、そもそもこんな古いカメラで動くものを対象に写真を撮ることはないので、今のままで十分な気もします。

フィルムらしい色味に印象の強い正方形、綺麗なぼけ感と非常に満足のいくカメラです。

上記写真は一年弱かけて撮影した4本のフィルムからのいいとこどり。ほかにももうちょっととっていますが、とにかく楽しい。最近デジタル一眼を買ったので、正直使い勝手はそっちの方がいいし、はるかに手軽なのですが、撮影をする楽しさは全然違う。

というより目的が全く違うように思います。デジタル一眼は撮影をすることよりも、その写真を楽しんでいるのだと思いますが、フィルムは撮影それ自体も楽しいし出来上がった写真を待つ時間、写真を見る時間すべてが楽しいのです。

 

以上つらつらとかきましたが、気が向いたら推敲します。

放射線取扱主任者試験合格発表を終えて

第一種放射線取扱主任者試験に合格致しました。

本日3月22日、午前10時過ぎにホームページを開いたところ令和2年度の合格者が発表されていました。

試験日が12月27、28日だったのでほとんど3ヶ月越しですね。

 

以前の記事にも記載したように問題数ベースで正答率は63%。合格ラインは6割なので当然といえば当然ですがギリギリ合格です。

といっても配点が公開されていない都合上正答率と得点率は異なるため、正答発表のみでは合格の確信は得られませんでしたが、ようやく落ち着けます。

なんか合格率40%と結構上がっていますね。どうでもいいですが。

 

 

とりあえず報告のみで、合格証を自慢して終わりにします。

 

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合格証

以上

Brand New Sunset / Hi-STANDARD

Hi-STANDARDのBrand New Sunsetの和訳です。

大好きな曲で、いつも何かがあればこの曲を聞いて泣いている。自分を慰めるわけでも強がるわけでもなく、事実を受け止めるために聞いては涙を流し、明日また笑えるようにするため。

 

 

誰もいないビーチでは

海風が僕の心を通り抜けていって

ただ僕の自転車が錆びついてゆくのを見ているだけ

 

振り返ることなんてなくって

帰える場所だって無いんだ

うん、気がついているよ

 

君が言った言葉

僕を大人の男に変えてくれた。そう思うんだ

見てご覧、このきれいな夕日を

大丈夫、泣かないよ

だって僕は強いから

 

僕はこの空っぽの部屋に一人で

壁からポスターを剥がすんだ

まるで古い思い出が落ちていってしまう様

 

今更振り返るだなんて

帰る場所もないのに

もう気がついているんだ

 

君が言った言葉は

僕を男にしてくれた、そうでしょう

ほら日没がきれいで...

平気、泣いたりしないから

だって僕は強いからね

 

 

以上

ハイスタも高校の頃から好きですが、中でも大好きな曲。

強がる男の子って時代遅れかもしれませんが、私は好きです。ジェンダー平等が叫ばれて久しいですが私は男らしい男がいい。別にそれを押し付ける気は有りませんが。

筋肉隆々で、気軽に弱音を吐くことをせずいつも強がっている、そんな男の子が理想です。

 

私の立場について

私は原子力工学を学んでいる。

 

東日本大震災から、いや私にとっては福島第一原子力発電所事故から10周年というときに文章を書きたくなかった。

だって私は原子力を学ぶ人間で、はたから見れば「過去を顧みずにいまだ原子力を推進する非人間」にでも見えるでしょうから。

 

弁明をしておこう、私は原子力発電推進派ではない。原子力発電肯定派であり、原子力推進派であるが、間違っても原子力発電推進派ではない。

私にとっての原子力発電は否定するものではない。もしも二酸化炭素排出を抑える社会を目指すのであれば原子力発電が必要であると説くし、そうでないのなら原子力発電があろうとなかろうといいでしょう。そのコストや電力安定化の重要な役割を果たすとは思っているが、皆が嫌ならやめればいいでしょう。それら感情論を全てぶっちぎってまで原子力発電を推進するつもりはない。

だから私は原子力発電肯定派だと名乗っている。脱炭素社会のためには推進。エネルギー安定化のためには肯定するが、推進はしない。

 

原子力について、私は原子力施設を推進しよう。もちろん有意義な目的に限ってでは有るが、新たな研究開発や医療利用、工学利用であればどんどん利用すべきだ。正しく管理するのであれば放射線は安全かつ応用可能性が広く、新技術や様々な疾病に対する治療、生産性の工場に大きく寄与するからだ。

後は、それ以上に地層処分をはじめとする処分地などを早急に決めるべきだと考えている。原子力が怖いなら早急に処分地を作るべきだ。私は原子力反対派こそ地層処分を推進すべきだと考えている。

だって放射性物質が怖いなら、さっさとそれを処分してしまえばいいのでしょう。危険なものを地上に置いておくよりも、地下深くに埋めてしまえばその方が安全でしょう?

 

ああ、また前置きが長くなってしまった。私の立場は以上である。

 

 

 

そして今回の本題、男という性について。

昨今はフェミニズムが盛んであり、女性の社会進出について多くの議論がなされ新たな施策が行われている。私は賛成だ。

この少子高齢化社会において、社会全体の生産性を向上させるためには女性の社会進出が必須であると考えている。

 

ただし私は男女の境をなくしてだなんて考えていない。生物学的性としての男・女に差異があると正しく言わねばならない。

 

事実福島第一原子力発電所事故を終息させるために働いたのはほとんど男だった。

放射線生物影響は、常に体内で精子を作ることができる男性よりも、一度卵子が作り終えられてからは二度と作ることができない女性のほうが遺伝影響が出やすい。

 

それは生物の仕組み的に当然である。だって生物は常に代謝をしているから放射線を受け傷ついたって、いずれは代謝で体外に出される。そうすれば個体にまで影響は現れない。つまり無害だ。

だからこそ、常に生成され40日程度で新たなものが作られる男性の精子なんてものは放射線を受けて一次不妊にはなれど永久不妊にはなりにくい。

けれど女性の卵細胞は違う。一度作られたら体内に留まり二度と作られることはないため傷が付き治らなかったらもうおしまいだ。卵細胞に修復機能があるかは知らないが、新しいものができず代謝されない。傷ついたとしてもずっと使うしか無い。そうなれば傷がつかない様予防するのが確実だろう。

 

だから福島では男性が駆り出された。もちろん一部女性の活躍もあったが多くはない。それはけっして男性優位だからでも女性優位だからでもなく、女性蔑視だからでもなく男性蔑視だからでもない。科学的見解としてリスクを下げるためには男性が向かうほうが合理的だったからだ。

こんな話をすると「女性が子どもを産むことを前提に話をするめるな」とか言われそうだけれどそれもまた違う。あくまで一つの選択肢を将来に残そうとする試みであり、無用な損失をなすべきでないのは誰の目にも明らかだ。

 

最初、福島原子力発電所事故対応の話を聞いた時は男性蔑視的な話題だと思った。

だって男性だって放射線は怖いし、女性だって放射線は怖い。なのに女性は福島に行かず、男性ばかりが駆り出されるなんてまるで戦時中のようだから。

けれどそんな矮小な話題じゃなかった。だって男女に生物的な差があることは科学的事実であり、誰にも覆すことはできないから。

 

私が思うにどんな人間であれど精神は自由であり、平等である。それは間違いない。各々自認する性があるだろうし、それがたまたま生物学的性と異なる場合だってある。そんなのは構わない。自分が思えばそれが正しいだろうし、他人がとやかく個人の精神に対して口を出すべきでは無い。

けれど体は生まれつきの体は精神にはよらない。精神にはよらないからこそ重要だと思うけれど違うのかしら。精神至上主義なんて西洋伝統、社会主義思想で廃れたと思っていたのに違う?資本主義のこの世の中に精神至上主義はむしろ不都合でないの?

と思ったら資本主義前提がおかしいのか。よく「資本主義は最悪のシステムだ、ただしこれまで人類が発明した他のどの仕組みよりもマシである」といったものに過ぎなくて、精神至上主義でいいのかな。もういいや

 

とにかく、公衆の安全を守り、集団のリスクを下げるためには科学的・生物学的見解を重視するべきである。別にそれが自認性とは異なるとしても。私は科学者だから確率を信仰している、個人の話なんてせず疫学の話をしたいから個人主義って好かないのよね。

 

以上

まとまらない部分はそのまま放置、いつの日か追記してゆきます

 

 

 

God Only Knows

時々無性に文章を書きたくなることが有る。

 

本当だったら太宰のように何の学びもないけれどどこか気が紛れるような美味しい文章を書きたいし、パーカーのような人を勇気づけるような己の哲学を反映した物語を描いてみたい。

 

最近は横文字をできる限り排除して言葉を綴る。それでいて、英語のように同じ単語や表現を避けて組み立ててゆく。

拘りっていうのは一見無意味のようでも、どこかで自分らしさを感じさせる鍵となるはずだから。

 

 

好きなものについて語り続けるのは簡単で、ただそれが否定され得る時にどう対応できるかが懐の広さだと思っている。私にとっての原子力

あなた方が必死に化学を勉強して、生物を学んであるいは理論物理に思いを巡らせたり、過去の出来事を解き明かそうとしている最中に私は原子力を習い続けていた。

あなたが本の虫になり語学を修めるときも、あるいは会社で必死に働く間、唯の平地に家を立てようとするその時にだって放射線を学んでいた。

だから原子力について語るのであり、その分私は他の分野に暗いのだ。あなた方が原子力に明るくなく、それ以外の分野に詳しいのと同じ様に。

 

 

確かに原子力業界はあまりに大きな影響を与えてしまった。ちょうど10年前。

変え様のない過去は認めるほかなく、犯した罪は償う必要がある。幾度となく謝っても贖うことのできない現実がそこに有り、きっと何十年経っても解決しないだろう。

しかし、だからといって謂れもない罪を認めるべきではなく、償うべきではない。

 

あまりの短絡的発想をアレルギーなどと揶揄するやり方は本当のアレルギーに失礼だし、こちらから敵を増やす必要は無いはずなので好かないが、そう馬鹿にする他無いほど議論が成り立たない輩がいるのだから困る。

 

確率と濃度。この2つを理解できない時点で科学を理解できるはずが無いのだ。

ただし我々はまっとうな人間の他にも、科学を理解できない人間も相手にせねばならぬ。もしも私が立場の有る人間ならこんなことを行った時点で大炎上だがどうだろう。

感情論。私は否定しない。だって感情論がこの世に存在しないのであればとっくに社会主義国家が世界を席巻し地球平和(笑)は守られているだろうから。

この世が資本主義を擁立する限り、感情論はなくならない。というよりむしろ、にんげんとは感情論を持つがゆえに資本主義を成り立たせている。その世の中で利用する技術に対して、根本から社会を否定する言葉をまさか吐けるだろうか。

 

だからといって演繹以外の方法で合理的な決断を下せるとは思えない。

科学が発展したのは一重に演繹法のおかげだろう。

科学を否定することもまた、人類社会を否定することにほかならないはずなのに。

 

 

 

  God only knows just believe in myself in my dream

  Anyone could be a hero and heroine.

  (God Only Knowsより引用(なおただのアニソンです))

 

私は悲劇のヒーロにもヒロインにもなるつもりは無い。夢が叶うなんて戯言は嫌いだし、神なんぞ信じていない。

自分自身を信じられないから今日も学問に励むのであり、努力が実らないから今でも仕方なく努力しているだけである。

 

くだらない文章はほんの少しだけ一日の充実感をマシにしてくれ、孤独感を紛らわせてくれる。ああ、あの日の問いかけが認められていれば私はこんな駄文を綴る必要はなかった。こんな勉学に励む必要もなかったし、もっと自堕落で何も考えずただ日々の幸いに甘んじていればよかったのに。

あなたに認められなかったからただ日々を生きている。何度もやめてしまいたいと思ったし、何度もやめた。しかしそのたびに将来に対する唯ぼんやりとした不安が私を襲い、死にたくなっては死なないために努力を為さなければならなくなった。

昨日より少しまともな人間になるために生きていたし、あなたに会うことが二度と無いことを知りながら万が一に出会ったときに立派な人間にならなければいけなかった。

何度も希うあなたの存在を恨んだことは一度もなく、ただ感謝し毎日のように絶望を感じては、いつの日か別の夜がやってくると信じていた。

3年経った今も夢はいつも夢のままであり、私はいつまでも私のままだった。

 

何度でも言おう、この社会が努力が報われる世界じゃなくてよかった。そうであれば一生私は報われないだろうから。