ココボロだとか好きだとか

大学院生による独り言と備忘録

私の立場について

私は原子力工学を学んでいる。

 

東日本大震災から、いや私にとっては福島第一原子力発電所事故から10周年というときに文章を書きたくなかった。

だって私は原子力を学ぶ人間で、はたから見れば「過去を顧みずにいまだ原子力を推進する非人間」にでも見えるでしょうから。

 

弁明をしておこう、私は原子力発電推進派ではない。原子力発電肯定派であり、原子力推進派であるが、間違っても原子力発電推進派ではない。

私にとっての原子力発電は否定するものではない。もしも二酸化炭素排出を抑える社会を目指すのであれば原子力発電が必要であると説くし、そうでないのなら原子力発電があろうとなかろうといいでしょう。そのコストや電力安定化の重要な役割を果たすとは思っているが、皆が嫌ならやめればいいでしょう。それら感情論を全てぶっちぎってまで原子力発電を推進するつもりはない。

だから私は原子力発電肯定派だと名乗っている。脱炭素社会のためには推進。エネルギー安定化のためには肯定するが、推進はしない。

 

原子力について、私は原子力施設を推進しよう。もちろん有意義な目的に限ってでは有るが、新たな研究開発や医療利用、工学利用であればどんどん利用すべきだ。正しく管理するのであれば放射線は安全かつ応用可能性が広く、新技術や様々な疾病に対する治療、生産性の工場に大きく寄与するからだ。

後は、それ以上に地層処分をはじめとする処分地などを早急に決めるべきだと考えている。原子力が怖いなら早急に処分地を作るべきだ。私は原子力反対派こそ地層処分を推進すべきだと考えている。

だって放射性物質が怖いなら、さっさとそれを処分してしまえばいいのでしょう。危険なものを地上に置いておくよりも、地下深くに埋めてしまえばその方が安全でしょう?

 

ああ、また前置きが長くなってしまった。私の立場は以上である。

 

 

 

そして今回の本題、男という性について。

昨今はフェミニズムが盛んであり、女性の社会進出について多くの議論がなされ新たな施策が行われている。私は賛成だ。

この少子高齢化社会において、社会全体の生産性を向上させるためには女性の社会進出が必須であると考えている。

 

ただし私は男女の境をなくしてだなんて考えていない。生物学的性としての男・女に差異があると正しく言わねばならない。

 

事実福島第一原子力発電所事故を終息させるために働いたのはほとんど男だった。

放射線生物影響は、常に体内で精子を作ることができる男性よりも、一度卵子が作り終えられてからは二度と作ることができない女性のほうが遺伝影響が出やすい。

 

それは生物の仕組み的に当然である。だって生物は常に代謝をしているから放射線を受け傷ついたって、いずれは代謝で体外に出される。そうすれば個体にまで影響は現れない。つまり無害だ。

だからこそ、常に生成され40日程度で新たなものが作られる男性の精子なんてものは放射線を受けて一次不妊にはなれど永久不妊にはなりにくい。

けれど女性の卵細胞は違う。一度作られたら体内に留まり二度と作られることはないため傷が付き治らなかったらもうおしまいだ。卵細胞に修復機能があるかは知らないが、新しいものができず代謝されない。傷ついたとしてもずっと使うしか無い。そうなれば傷がつかない様予防するのが確実だろう。

 

だから福島では男性が駆り出された。もちろん一部女性の活躍もあったが多くはない。それはけっして男性優位だからでも女性優位だからでもなく、女性蔑視だからでもなく男性蔑視だからでもない。科学的見解としてリスクを下げるためには男性が向かうほうが合理的だったからだ。

こんな話をすると「女性が子どもを産むことを前提に話をするめるな」とか言われそうだけれどそれもまた違う。あくまで一つの選択肢を将来に残そうとする試みであり、無用な損失をなすべきでないのは誰の目にも明らかだ。

 

最初、福島原子力発電所事故対応の話を聞いた時は男性蔑視的な話題だと思った。

だって男性だって放射線は怖いし、女性だって放射線は怖い。なのに女性は福島に行かず、男性ばかりが駆り出されるなんてまるで戦時中のようだから。

けれどそんな矮小な話題じゃなかった。だって男女に生物的な差があることは科学的事実であり、誰にも覆すことはできないから。

 

私が思うにどんな人間であれど精神は自由であり、平等である。それは間違いない。各々自認する性があるだろうし、それがたまたま生物学的性と異なる場合だってある。そんなのは構わない。自分が思えばそれが正しいだろうし、他人がとやかく個人の精神に対して口を出すべきでは無い。

けれど体は生まれつきの体は精神にはよらない。精神にはよらないからこそ重要だと思うけれど違うのかしら。精神至上主義なんて西洋伝統、社会主義思想で廃れたと思っていたのに違う?資本主義のこの世の中に精神至上主義はむしろ不都合でないの?

と思ったら資本主義前提がおかしいのか。よく「資本主義は最悪のシステムだ、ただしこれまで人類が発明した他のどの仕組みよりもマシである」といったものに過ぎなくて、精神至上主義でいいのかな。もういいや

 

とにかく、公衆の安全を守り、集団のリスクを下げるためには科学的・生物学的見解を重視するべきである。別にそれが自認性とは異なるとしても。私は科学者だから確率を信仰している、個人の話なんてせず疫学の話をしたいから個人主義って好かないのよね。

 

以上

まとまらない部分はそのまま放置、いつの日か追記してゆきます