ココボロだとか好きだとか

大学院生による独り言と備忘録

CLOVERの話

私がいちばん好きな漫画家(集団)はCLAMPで、その中でも『CLOVER』が好き。

『CLOVER』は、元軍人の主人公、琉がスウという魔法を使うことのできる少女を遊園地まで送り届けるという全四巻からなる短いお話。少しばかりディストピアチックで、スチームパンクな世界観を持ってる物語です。一応未完なのだけれど最後の発刊から20年も経っているので続きは出ないのかなと思っている。

1巻はスウを遊園地まで届けて終了、2巻以降は琉やその旧友である銀月、スウ達の過去が語られていきます。

 

今日の主題は『CLOVER』の芸術性について。なんていうと仰々しいのですが、純粋にこの作品を世間一般の漫画として話すというのは何か違う気がするのです。どちらかといえば、『CLOVER』の芸術性は純文学のそれに近く、お話そのものやその語り口にこそ美しさがあると思います。これは別に漫画という手段を貶めているわけでもなければ、表現の手法の高尚さなんてものを語るつもりもありませんが、私には『CLOVER』は『ツバサ・クロニクル』や『カードキャプター・さくら』といったより大衆的な漫画とは異なり、彼女らの持つより根源的な芸術性を主題とした作品のように感じられるのです。淡々としてた状況描写にコミカルな表現を行わずしっとりと続いていく登場人物らの会話、"必然性を感じられる彼らの行動"が純文学らしいのです。

私にとっての純文学は、"一つのルールに乗っ取って廻っていく作り物の世界"のことです。純文学において、私たち読者は、その世界のルールをはっきりと理解できているかどうかは別として、そこの住人の言動に必然性を感じ取ることができると思うのです。現実世界の様なまどろっこしさはなく、ただ純粋に言動を抽出することができるからこそ、筆者は、その語り口や表現に拘り、"純"文学を行う事ができるのだと思っています。

 

例えば、私がよく引く太宰文学なんかはその典型です。『人間失格』について語るとき、おそらく多くの人間は主人公である大庭葉蔵へ感情移入をしないでしょう。彼を可哀想だと思う人間がいなければ、だからと言って彼を強く非難する人間もそういない。一見、目に映らないガラスの壁が私たち読者と葉蔵との間を阻むのです。

そして太宰文学は何も語りません。彼の提示する世界の中のルールで人が生きて死ぬ。その光景を私たちは安全な場所から眺めるのみであって、葉蔵のふとした言葉に感銘を受け勇気づけられたり、あるいは彼の言葉を間に受けてひどく考え込むこともないのです。それはまるで、朝目覚めた後に一口含む透明な水のようであり、確かに我々の中に入って来やするが、その実ただすぐに体外へ流れ出てしまう水そのものなのです。

太宰文学について言葉が続きすぎました。閑話休題

 

CLAMPの『CLOVER』と言う作品は全く同様の効果を持っていると私は思うのです。それこそ、ただその作り上げられたルールを眺め、ほんの少しだけ決められた仕事をしてすぐに私たちを置いて消え去る水のような印象が、『CLOVER』にはあるのです。

私の人生を変えてくれた書物は確かにあります。『後世への最大遺物』など。しかし『CLOVER』は私の人生を変えないでいてくれたのです。そしてそれは、勇気づけもアドバイスもよこさないからこそ純粋な文学で、純粋な娯楽であり続けるのです。