ココボロだとか好きだとか

大学院生による独り言と備忘録

小沢健二の『愛し愛されて生きるのさ』の詞から眺める、Laura day romance の『olive drive』

幸福のハンカチーフで拭きとれないほどの涙流してた季節は遠ざかって近づく

Laura day romance / olive drive

 

 

 

Laura day romance、昨年私が一番聴いたバンドだろう。

 

出会いはたしか三月。LIGHTERSを聴いていた後の連続再生でおすすめされそのままハマった。いつもだったらただ聞き流して曲を設定し直すところだが、あまりにドンピシャ過ぎて全アルバムを聴いた。そのうえわざわざブログまで更新した。以来、何度も聴き返している。

ちなみにYoutube Musicによる2022の(個人)ハイライトを見ると、一番ランクインが多いのがLauraの12曲、並んで多いのがヤマモトショウ(ふぇのたす、fishbowl、She is summer(作詞が彼))の12曲であった。それ以外はm-floとか中村佳穂とか。

 

それで今日話したいのはLauraの『olive drive』と小沢健二の『愛し愛されて生きるのさ』。この間のライブ(homecomingsのUS)のMCで、フリッパーズを好きだと言っていたから間違いないと確信しているが、olive driveは小沢を意識しているだろう。

 

 

私には『olibe drive』に出てくる"幸福のハンカチーフ"こそ、小沢の『愛し愛されて生きるのさ』であるように思われる。小沢の楽曲のほとんどは、多幸感、それこそ幸福に塗れた、現状肯定、未来への希望を謳うものである。なかでも、『愛し愛されて~』は主人公のみならず、街中の愛を認め、そしてその中に自分もいるのだという主人公→街といった通常の一人称的な歌詞ではなく、街を俯瞰してみた中で、その幸いの中に自らもいるのだという街→主人公の俯瞰的な、多幸感のある歌詞である。

 

 

『愛し愛されて~』の雨は、

とおり雨がコンクリートを染めてゆくのさ

僕らの心の中へも浸みこむようさ

この通りの向こう側 水をはねて誰か走る

と歌われる。雨が降り、心によどみを感じるものの、その悲しさを振り切り走り去る"誰か"の力強さ (水をはねてという表現からの、雨を厭わないという強い意志)、また、"簡単に雨が上がった"という文からは、悲しみなんて大したものではなかったのだという思いが感じられる。

 

一方、『olive~』は一人称的な哀愁を中心とした歌詞だ。

8月の最後の切なさを 切り取りたくて

四畳半でペンを走らせてる 最中

予報通り雨が コンクリート

染めるみたいにカレンダーに印が連なっていく タラッタ

 

ゆっくりただゆっくり 子供の頃はそう過ぎた

もういっそ 夢から醒めた大人のふりして 駆ける駆ける

で始まるこの歌詞では、"雨"は予報通り降る。通り雨とは異なり予想の範疇の出来事であり、予期される悲しみであったのだろう。

そして駆けるのは自分自身であり、その心持は"雨を厭わない"ではなく、"もういっそ"という、現状への不満を抱きながらそれを解決する術がないから、仕方なしに"夢から醒めた大人"を演じながら走るという、ある種のあきらめ的感情である。

余談であるが、Lauraは時間経過を示す語が特徴的だ。今回でいえばカレンダーに印が連なっていくといったように。また、この引用では韻の踏み方が非常に面白い。"最中"と"タラッタ"。このAメロは、2番ではタラッタの部分が"さらば"となっている。無理やり、といえばその通りではあるが、ボーカルの声質通りのけだるさを感じて好きな部分である。なお、作詞とボーカルは別人なのはあしからず。

 

 

この二曲では"君"の表現も対照的だ。

小沢は前の引用から、

夕方に簡単に雨が上がったその後で

お茶でも飲みに行こうなんて電話をかけて

駅からの道を行く 君の住む部屋へと急ぐ

いつだって可笑しいほど誰もが誰か 愛し愛されて生きるのさ

それだけがただ僕らを悩める時にも 未来の世界へ連れてく

と続ける。君への働きかけはあくまで自分であり、愛おしい君のために雨上がりの街を駆け抜けていく、芯を持った主人公が描かれる。

 

オリーブでは、

メイビー きっと胸の奥の奥

残るささやかな光も

冷え切った夜に晒される

後で兆す不安ごと歌にして

空っぽになった頭の中を埋めるのが

君だとは思わなかった

と続く。胸の奥に残るかすかな光(=愛情)すら、冷え切った夜に晒されてなくなってしまう、それによって生じる不安を解消し、空っぽになった頭には、意図せず"君"が浮かんでしまった。というあくまで受動的に思い起こされる対象が"君"なのである。そして冒頭の幸福のハンカチーフへつながるのだ。

 

 

続いては"夢"と"大人"について、

オリーブではもう引用したが、『愛し愛されて~』では、

ナーンにも見えない夜空仰向けで見てた

そっと手を伸ばせば僕らは手をつなげたさ

けどそんな時は過ぎて大人になりずいぶん経つ

ふてくされてばかりの10代をすぎ分別もついて年を取り

夢から夢といつも醒めぬまま僕らは未来の世界へ駆けてく

と語られる。分別もついた大人になりながらも、いつまでも夢を追い続けて未来へ進んでいく主人公に対して、オリーブでは"夢から醒めた大人のふりして駆ける"と表される。どちらも夢から醒めてはいないものの、夢を信じたままの主人公と、半ばあきらめて醒めたふりをした主人公。多幸感を歌った小沢と比べて、Lauraはひんやりとした切なさが印象的である。芯を持ったいわゆる"立派"な主人公と不本意ながら現実を受け入れる控えめな主人公。どちらがよいというわけでもないが、本来ならば小沢の『愛し愛されて~』のような"幸福のハンカチ"になりたかったが、なりきれない残念さというものが『olive ~』からは感じられる。

 

 

 

小沢とLauraの比較に関してはこんな感じ。アンサーソングというよりも憧れの歌として『愛し愛されて生きるのさ』があり、小沢のように現状を肯定しきれなかった自分の不甲斐なさや切なさをLauraは歌っているのだと考えている。

私自身、小沢健二の歌う多幸感へ憧れを持っている。しかしながら、自分自身がそんな幸いを歌うことができるかというと、間違いなくできない。このブログを見ていれば後ろ向きな私の考えを知っているだろう。それでも、心の奥底では幸いな歌を歌っていたいと願っている。何度も引用した太宰治の言葉、

安楽なくらしをしているときは、絶望の詩を作り、ひしがれたくらしをしているときは、生のよろこびを書きつづる。

太宰治/葉

結局はこういう事なのかもしれない。小沢もかつて、多幸感あふれる歌を作り続けた後、『ある光』なんて言う彼らしくない(本当の彼なのかもしれない)曲を作って舞台から消えた。再び舞い戻った今では、ソロ時代よりもフリッパーズ時代のような哲学的な詩を書くことが多い。

Lauraの詞はGtの鈴木迅が行っている。私は、彼の作詞に日常を切り取る詩人らしさをひどく感じるのだ。アンニュイな井上花月の歌声や川島健太郎の絡み合うギター、よどみなく流れていく礒本雄太のドラムスなど、様々な"引き"がLauraにはあるが、私にとっては鈴木の詞が一番の魅力である。

 

 

 

最後に『olive drive』について、この曲は、

最終列車乗り遅れても

つまらないパーティーを抜け出しても

甘い季節の果実を齧るようにまた

 

10月

落ちた葉がコンクリート

染めるみたいにカレンダーに印が連なってゆく タラッタ

という歌詞で終わる。

 

またもやLauraらしい時間経過の詞だ。一文目も二文目もちょっとしたなんでもない一日の時間経過を平凡に綴る。そして、甘い季節の果実を齧るようにまた...

この"また"とは何であろうか。私は、また君を思い出すのだという文章だと思っている。"季節の果実"というように、齧るものは常に思い起こされるものではないのが明らかだ。もう過ぎてしまった過去の出来事を、季節が巡る度に思い出してしまう。その記憶を愛おしく反芻してしまうという事ではないだろうか。

 

そして最後、"落ちた葉がコンクリート染めるみたいにカレンダーに印が連なってゆく"という一文だ。最後には雨ではなく落ちた葉がコンクリートを染める。葉は染み込むものでもなければ乾いていくようなものでもない。木から葉が落ちる。それは自らの思いがその体から離れて行ってしまう事と同義であり、また、コンクリートに落ちるということは、落ちた葉がなにか影響を及ぼすこともない。ただ一時的にコンクリートを染め上げ、いつの間にか風に吹かれて何事もなかったかのように消えてしまう。そして季節が廻るとまた、葉に色が付き季節の果実を齧るように思い出す。

そんな循環するような歌詞が、『olive drive』の魅力だと思っている。