彼の文章には、文学的な新鮮さが香るものの、その実、そこには全く新しいものなんてないのである。(中略)一見新しく見えるものは、一見古くも見られる。それはまるで書き改められた羊皮紙、あるいは何度も糸を紡ぎ直してはその度に織り直されてきたタペストリーの様であった。
私がブログを書く理由。それを端的に言えば、焼き直しに価値を感じているからである。
冒頭の一節は、アメリカの文学者ウォルター・ペイターによる『プラトンとプラトニズム』の中の一節である。彼はプラトンの文章に対し、美しさといった文学的価値を認めて称えつつ、しかし新しいものなど何もなかったと評してしているのだ。もちろんこれはプラトンに対する批判でない。それどころか寧ろ文学を端的に表現した、最も上等な賞賛だといってもよいだろう。
私の生きる科学の世界では論文によって評価が為される。そこには文学はなく、論理によって良し悪しが分かれるのだ。自然科学は特に一般化された論理を良しとし、主観を取り除くための多くの努力が積み上げられてきた。
その一方で、芸術はそうはいかない。論理が重要であるにせよ、なぜそうしたのかといった主観的な判断、もっと言えば、人の根源にあると思われる感情にこそ、良し悪しを分ける分水嶺があるのではないか。そして「誰が言ったか」という説得力の水源となるのだろう。
こんな芸術論を語っても仕方がないか。だって、誰かがすでに行っているだろうから。
本当だろうか?
私は誰かがすでに行っている仕事にすら興味があるのだ。確かに、その誰かは私よりも良い文章を遺したのかもしれない。傍から見れば、私のこのブログなんて、誰かの焼き直し、車輪の再開発、既に書かれた羊皮紙、あるいは古のタペストリーなのかもしれない。しかし、私はそれに価値を見出しているのだ。
タペストリーを紡ぐその糸が、古より何度も織り直された使い古しだとしても、糸の織り合わせが変われば全く新たな香りをもたらすかもしれない。
誰かが書き記した羊皮紙だったとしても、その一部を削り書き直すことで全く違った趣を持つかもしれない。
だから、私はブログを書くのだ。
私の文章はナニカの書籍の焼き直しかもしれないし、私は誰かの劣化版かもしれない。それでも、そこに価値は見出せるのだ。かの哲学者ホワイトヘッドは、「西洋哲学の歴史はプラトンの注釈に過ぎない」と述べたらしい。全く結構ではないか。
その注釈の有無で、言葉を受け止められる人が増えるのかもしれないのだから。
[1]Plato and Platonism, Walter Pater,1893 ※
※私の知る限り邦訳は出ていないが、まま、引用のため書名が掲載されることがある。その際は『プラトンとプラトニズム』あるいは『プラトンとプラトン主義』という邦訳題名が用いられる場合が多い。なお、原本は Project Gutenberg(海外版の青空文庫のようなもの)で読める(https://www.gutenberg.org/ebooks/4095)。
特別お題「わたしがブログを書く理由」