ココボロだとか好きだとか

大学院生による独り言と備忘録

リスクに関する雑考

リスクに関する雑考

 

私の専攻はコミュニケーションだ。もっと言えば科学技術の諸問題を、どのようにしたら社会一般に受容してもらえるのかということが関心ごとである。

インフォームドコンセント。そんな言葉が一般のものとなって久しいが、詰まるところ自分のことは自分で決めろということである。そこにはやや厳しい側面、つまり情報を判断しリスクを受け入れるのは自分自身であって、他人にその責任を押し付けることができなくなったという事実も存在する。これまでは専門家、インフォームドコンセントの話題で言えば医者に責任を押し付けることができた。うまくいけば御の字だし、失敗しても彼らの判断が誤りであったと言えば良かった。

そんななか、インフォームドコンセントはセカンドオピニオなどと一緒に普及し、自らの判断で適切な医療を選べる=権利拡充のお題目の元広まった。私にはこれは一般市民が権利を勝ち得たというよりも、専門家の免責という面が大きく見える。もちろん、主治医と判断を異にするなんて状況は昔からあったはずで、そう言った場合において言えば良い変化だ。だが、私は自分自身ですら全くわからない体(あるいは精神)と言ったものを自分の責任のもとで治療を委ねなければいけないのだ。

責任というものは非常に重い。それこそ自由なんかよりもよっぽど。

 

 

では、我々はどうするか。それこそ自分たちで生きていくしかないのか。

人間社会は、分業制によって成り立っている。今この文章を書いているスマートフォンアメリカの会社のものであるが、工場は中国にあるらしい。そしてそのパーツは日本で作られている。流石に工作機械がどこの国のものかは知らないが、金属素材はアフリカや中国から来ているのだろう(私はあまり地理や国際情勢に明るくない)。

我々は、自分で鉄鉱素材採掘することも、機械でそれを加工することも、パーツ同士を組み立てることも必要なく、ただお金を払えばスマートフォンを手に入れることができる。かつては医療だって、お金さえ払えば、誰かが理論提唱を行い、誰かがそれの研究を行い、誰かが実用化し、誰かがそれを私たちの身体に適応してくれた。我々はその中身に触れるどころか、全く知る必要すらなく、医療を享受できたのだ。

 

それが、今では私たち自身で判断せねばならなくなったのだ。確かに強制は良くない。可能であれば自分自身で判断すべきだろう。しかし可能だろうか?

私はコミュニケーション以前に、原子力が専門である。だから一般の人と比べて原子力工学には明るいし、放射線計測やらに詳しい。しかしその分法学や社会学なんかにはあまり詳しくないし、理系の中でも有機化学やら分子生物学なんかは全くわからない。同じように、どうやって車を組み立てているかだとか、お客様に満足して堪える接客なんてものもわからない。私が原子力に"かまけている"間に、他人は文学や料理、建築なんかを極めていた。

そんな人間に、たとえば法解釈だとか自作PCを作るだとかなんてできるわけがない。やり方を聞いたとしてもできないし、理解すら困難である。

お互いがお互いの人間にとって簡単なものが、困難なものとして存在する。それは、優劣ではなく、単に"自分が何を選び取ったのか"である。

我々がもしも何らかの専門家であるなら、必要に応じてその内容を解説するべきではないだろうか。

私はノブレスオブリージュという言葉が嫌いだ。これは貴族的道徳を指すもので、あって今まで話してきたような、単なる差異に過ぎないものを貴卑で語ることを好かないからである。

だから、単に私が民主的という言葉をあまりに絶対的に語っているだけかもしれないが、話せばわかり、話してよりよく決めていくことを重視しているだけなのかもしれない。

 

 

昨今科学はリスクを語るようになった。それはもちろん、一般市民の権利拡充のお題目のもとに、である。民主主義を信奉する私としては良い傾向と考えるが、それと同時にあまりにも困難が多すぎると感じている。だってそれは、分業制の否定につながりかねないからである。