ココボロだとか好きだとか

大学院生による独り言と備忘録

芸術についての雑考

私は科学と哲学と、芸術とに明るい人間でありたい。

ついでを言うのならば文学に造詣が深い人になりたい。

 

芸術が生命維持に必要ないなんて戯言だ。芸術の発端はcollectionもしくは独占、所持欲求である。遥か昔、まだ原人が栄えていた頃、川に流され角の取れた石を遠く数km離れたすみかに持って帰った者がいたという。なんともその石には目や口のような跡があったのだという、つまり彼(女)にはシミュクラ現象が起こり顔に見えたのだろう。そのような顔に見える石、原人にとっては狩りの役にも立たず生命維持になんら関係のないただの石を、ある原人はどうしてもそばにおいておきたかった。彼(女)は一人ではなかったはずである。ある程度の集落を持つ原人は仲間同士のコミュニケーションはあっただろう。しかし、いやだからこそ顔に見える石を彼は持って帰ったのかもしれない。

アイデンティティは必ずしも自身の内面のみによるものではない。資産や所有物はそれまでの自身の生活を、その哲学を具体化したものである。数多ある物の中から何かを選ぶ、そこには個人個人の癖や思想、哲学がある。そして手に入れた物を手放すことなく所有し続ける、もしくは他人に譲渡する、あるいは捨ててしまう、そのような行為にも思想や人柄が反映される。

ただの石は目と口とがあるように見え、まるで自身ら原人の顔のようであるという発見をした彼はそれを住み家へ持ち帰った。そして死ぬまで連れ添ったのかもしれないし、いずれ移動する頃にもとの家の守護とするようにおいていったのかもしれない。あるいは、やはり必要ないと思い捨ておいたのかもしれない。彼の行為は芸術の表れである。

何かをほしいと思うとき、それは心が動かされたときである。もっと言えば何かの存在が自分の生活に影響を与えると強く感じたときである。古典芸術は美しさを求めた。理想の人間像としての彫刻、もしくは超人的な力を持つ神をモチーフにした石像など。あるいは美しい風景が対象だったろうか、彼らは写真機を持たなかったため、再びそのシーンを見るためには描くしかなかったのだ。自分自身の頭の中に残ったその情景を再びその両目で、網膜を通して美しさを感じるためには、自らの手で紡ぎだすほかなかった。

しかし、現在はどうであろうか。写真機は普及しきった、というよりも、写真機の機能を有したスマートホンなる四角い箱が台頭し、誰もが簡単に情景を切り取ることが可能になった。あくまで平面を切り取るにすぎないけれど、その描写はおそらくほとんどの人間の手書きによるそれよりも繊細で、はるかに鮮やかである。

では、芸術はどこに行くのだろうか。もはや芸術とは自らが一度見た愛おしい情景を再びこの世に映し出す行為ではなくなった。手法が発達したことにより、価値が減少したのである。だからこそ芸術は新たな芸術を求めて進化を続けている。古典芸術は確かに美学の追求であり、それ自体が上等な営みだったかもしれない。一方で現代芸術はもはや美学の追求にはとどまらず、新たな問題提起、以前の芸術への反抗を目的としている。

 

では現代芸術とはなにか。それはつまり、過去の美しいシーンを再現するといったものではなく、これまでになかった新たなシーンを表現することである。

だからこそ、芸術が生命維持に関係ないだなんて言うのは虚言だ。人はただ生きるだけで表現者であるから。

 

※本稿は2020年に9割書いて放置していた文章に、最終段落を追加したものである。書き出しのきっかけはアーティゾン美術館の開館記念の石橋コレクション展図録だと思われる。