ココボロだとか好きだとか

大学院生による独り言と備忘録

冷凍みかんと昆虫食と太陽光と

感情論を否定しない。

 

私は一端の科学者である。だから、理路整然とした主張を好むし科学的根拠のある意見提案を求める。しかし、それ以前に人間であるから感情的な主張や感覚的な判断を嫌わない。

現代はいささか科学至上主義に陥ってはいないか。

 

私の専門は原子力であるから感情的な反発も多い。大抵の場合賛成派は合理主義的に原子力を肯定する。それは環境問題への寄与だったりエネルギー問題への関心だったりとさまざまであるが、彼らなりの理屈に適ったものであるのだろう。

反対派の"一部"には感情的な主張もある。例えば、2011年秋頃、放射能が検出された冷凍みかんの給食提供を取りやめる市町村があった。その検出量は基準値を大幅に下回るものであったが、安心のため取りやめたのだという。

彼らは、基準値以下であったとしても、子供達のためを思って提供をやめたのである。取りやめるコストを払ってでも子供達を守ると、そう判断したのである。

 

私から見てこの判断は全く正しいとは思われない。だって基準値ですら大幅な安全率をかけて算出されており、それを満たしているにもかかわらず、検出したという事実のみを取り上げて判断をくだしたのであるから。そんなことが許されるのなら、人間はなにも食べられない。錬金術師ではあるが、パラケルススの言ったすべてのものは毒で有るという主張は正しい。水ですら人を殺すのだ。

あるいは、人間に対する発がん性がおそらくないと言われる物質は、現在ε-カプロラクタムのみである。IARCによる発がん性を持つかどうかの分類では、分類できないというグループが最も多い。がんが嫌ならε-カプロラクタムを食べればいいのだ。まあ栄養なんてありもしないが。

 

こんなことは間違いなく詭弁だが、"発がん性がある"という事実だけを取り上げて否定するのも同じレベルの詭弁である。

 

だから私は冷凍みかん提供を中止した判断を否定する。しかし、その心までは否定しない。彼らが善意からその判断を行ったことは推察できるし、ただ単に思慮が足りなかっただけである。知識が足りなかっただけである。

人間の思考は有限なのだから知らないことは知らない。誤っているのは判断であって、彼(女)ら自身が間違っているわけではないのだ。

 

 

昨今の気掛かりは昆虫食へのバッシングである。食べたくないなら食べねば良い。食べられるならば食べれば良い。それだけであって、それ以上でも以下でもない。給食に出て食べないのは単なる好き嫌いである。

たったそれだけ。それだけであって、エスニックな野菜が給食に出た場合となんら変わらない。確かにアレルギーの恐れはある。しかしそれは他の食材であっても同じである。

このバッシングは太陽光発電も同様ではなかったか。あれは確かに銀の弾丸ではない。エネルギー密度が小さいし、安定供給もしづらい。しかし役に立つ場所では役に立つ。過度な信頼は厳禁だが、過度な批判もまた厳禁である。

昆虫食だってそうだ。未来のタンパク源なんてたいそうなものではないかもしれない。しかし、全く役に立たないわけでもない。その生き物自体が出す温室効果ガスは確かに少ない(ただし冷暖房などの設備によるものは不明確)し、給餌量と収穫量の比がマシだというのもそうなのだろう。

ただし、昆虫食が食料問題を解決するかと言われればおそらくそうではない。現段階での選択肢の一つであって、過度な批判に晒されるような異質な主張でもなければ、過度に肯定されるような、万能な主張でもない。

肯定するものは理論から肯定するだろうし、否定するものは感情から否定するだろう。それで構わない。

 

 

大の大人が主張する意見だ。昆虫食肯定の意見には一理ある。まあ一理もないものを主張されても困るだけだが...

 

本稿は、なんとなく昨今感じる気持ち悪さを感覚的に吐き出したものにすぎない。

いつも言うことだが、この世は所詮確率論である。危険性のないものなんて存在しない。道を歩けば最悪死ぬし、道を歩かなくっても家にいるだけで最悪死ぬ。

私たち人間は日常を平和だと思うきらいがある。普段過ごす日々にはなんら危険が存在しないと思ってしまう。だからこそ、新たなものへの恐怖が常に付きまとうのだ。

しかし、本当に正しいだろうか?

この日常は安心・安全だろうか?

私にはそうは思われない。本来危険であるはずのものが街中を闊歩し、少しハンドルを切り間違えるか、ペダルを踏み間違えるだけで人を殺してしまうような日常を生きるのだ。食べ物だって同様で、やれ農薬が危険だ、放射能がどうだなんて言う以前から、食べ過ぎれば人の害になるものがいくらでも存在する。

日常食する食べ物は、その昆虫よりも本当に安全か?昆虫食が危険なのではなくて、食べ物全体がそもそも危険だったのではないか?

相対的数値のみでは時折人は判断を誤る。絶対的な数値だって重要だ。まあその逆もまた然りと言ったところだろうか。

 

しかし、科学的に数値的に正しいから大丈夫だなんて言うつもりも毛頭ない。最初にも言った通り、好きなら食べ、嫌なら食べなければいいだけである。そう言った感情的判断は正しいと思うし、私があまりエスニック料理が好きじゃないのも同様の理由である。だから私は昆虫食を嫌だと言う意見を否定しないし、むしろ肯定する。その心は理解できるからだ。

 

けれど、その感情を支持するために時折めちゃくちゃな理論武装が見られる。ワクチンだって嫌なら嫌、信用できないなら信用できないと言えばいいのに、陰謀論的な考察でもって否定するのはなんだか気持ち悪い。そこに本当に理論が必要なのだろうか。

 

 

行きすぎた理論武装は人を疲れさせてしまう。きっと元来人間は感情的な生きもので、もっと自由な判断基準を持っていたのだろう。それが、科学主義が発展するにつれて、感情論すら論理武装するどっちつかず民間科学が跋扈し始めた。この現状を憂いているのだ。科学は科学で良い。感情は感情で良い。だから、中途半端な理論武装なんてやめて語らい合えば良いのである。