ココボロだとか好きだとか

大学院生による独り言と備忘録

科学の範囲と処理水放出に関する雑考

科学がおよそ語り得るものについて。

 

 

 

はじめに

私の学ぶ分野において、ここ最近ではとある大きな話題が世間を騒がせている。もちろんそれは福島第一原子力発電所事故における処理水の取り扱いについてで、処理水放出、トリチウム水問題、云々である。

 

私は何者か。私の専門は学部の頃から原子力であって、中でも絞るのであればリスク評価や科学コミュニケーションの分野、特に廃止措置や使用済み燃料といったバックエンドと呼ばれる部分に興味が向いている。

 

私は今回語りたいのは自然科学の範囲であって科学そのものではない。ぼやけた輪郭を引くだけであって、その内容まで詳らかに話すつもりはない。

 

 

 

自然科学の理念と適応範囲について

哲学から自然科学というものが独立した時期、自然科学とは真理探究においてその心理的な要因を取り除いた唯物主義に根ざしていた。神学や哲学が、唯心論を根底に置いたことに対応して、科学は徹底的な唯物論を元に語られた。物の情報を集めることにより、物の未来を語ることを目指した。

もはや固執とも思われる主観の排除。それは唯物論による当然の帰結で、自然科学とは個人を問わずに再現性を担保した(と思い込んでいる)科学である。

 

一方で、人文科学は端から心理を包含していた。心理学なんてものは、自然科学とは全く独立をした科学であって、大まかに言えば個人の性質を廃していない。あくまで、確率統計という手法を用いることによって、傾向を知る術に他ならない。それは大数を相手取ることによって平均化を行い、恰も個人差がなくなってしまった(傾向に紛れてしまうこと)ように見えるだけであって、十分有効な科学ではあれど、自然科学のように未来を語り得る学問ではないのだ。

 

では本題である。自然科学は処理水放出の何を語るか?

原子力業界や政府機関は科学的根拠を大々的に押し出し、風評被害を抑えることを目指している。しかしそれは妥当であろうか。私にはそうは思われない。

風評とはそもそも自然科学と全く関係のない噂である。それは感情に根差した言論であり、自然科学とはそもそも相容れないものだ。

ただし、重要なことは風評が悪いものではなく、感情だって悪ではないという点だ。

確かに、我々は科学なる文化を尊ぶ現代人である。しかし、我々はどこから来たのかを今一度考えるべきだ。確かに自然科学の出現は人類史を語るうえで非常に重要なものを示すが、それ以前に我々は感情により幾年をも生き抜いた人類である。だからこそ、感情を全く抜きにして物事を語ることは容易ではない。

当たり前のことだ。私はよく言うが、家の裏に墓地や寺ができると聞けばそれに反対意見を示すだろう。そこにあるのが全く感情的な要因のみであり、科学(特に自然科学)的になんら変化がないとしても、なんとなく嫌なのだ。

きっと多くの人が、トイレを洗ったスポンジで風呂掃除をしたと聞いたら、なんとなく嫌悪感を示すだろう。では、自分の歯ブラシでトイレ掃除をされたと聞いたらどうだろうか?いくら、掃除の後にスポンジや歯ブラシを除菌したと言われたとしても、厭だと思う人間の方が多いだろう。あるいは有名な裁判例として、飲食店のさらに排尿をした被告人が、器物破損の有罪となったものがある(大審院明治42年4月16日判決)。被告人は物理的に皿を破損したわけではないが、心理的に再び使うことを著しく困難にしたことにより、器物破損の罪を受けたのだ。確かに、消毒・洗浄を行えば汚くはないだろう。しかし、その穢れを取り除くことはできないのだ。我々にとって重要なことは、もしかしたら唯物論的で自然科学的な処理ではなくて、もっと感覚に根付いたものなのかもしれない。

 

そして、それは昨今の処理水でも同様で、なんとなく嫌なのだ。そしてそのなんとなく嫌と言う感情は、なんら科学的言論に劣るものではない。むしろ、感情を排した意思決定なんて非人間的な主張が罷り通るのであれば、効率化の名の下に個人自由主義なんて排されてしまうだろう。

我々原子力分野の人間や、福島近隣やその場に住む/故郷にする人々にとって、かの事故は忘れぬ一大事である。しかしながら、そのほかの人々にとって、少なくとも現代の風評というものは、自分自身の日常から離れた些末な事柄であるだろう。そんな些末な事象に対して、我々は深い思考を行わない。世界の裏側で苦しむ第三世界の人々や、難民の方々の話を聞いて心を痛めたとしても、問題解決のために重大に考える人は多くないだろう。もちろん、考える方が良いことはわかっている。それでも、何も変わらぬ日常を過ごす人間が多いだろう。これは当たり前のことで、誰もが自分に直接関係する事柄以外に多大なリソースを割くことはしない。それだけである。

 

 

 

おわりに

では、我々はどこへ行くのだろうか。自然科学が通用しないのだから無駄だ、というだけでは事態の進展はない。私の回答は、至極当たり前の答えではあるが、感情には感情でもって対峙するというものである。ではどのように行くか、思うに、信頼を使うしかないのかもしれない。奇しくも、私の嫌いなリスクコミュニケーションと同じ答えを言ってしまった。

その心は、人が感覚的な意思判断を行う根拠となるうえで大きな存在が、信頼性のある友人等であると思うからだ。小規模な集団における友人等の意見は感情に対して非常に大き影響を持つだろう。しかし、このままでは自然科学などを信ずる専門家は何も手の施しようがない。彼らは如何にすべきか。私は、科学に信頼を置く奇特な人間をハブにするべきだと思うのだ。

私にとっても、大抵の人にとっても、大抵の意思決定は感覚によるだろう。しかし、人々の中には科学的な情報に信頼を感じる人間もいるだろう。それは人単位ではなくて、どんな状況に何を重視するかであるのかもしれないが、科学的な情報を信頼という感情へと変えられる人間がいることは確かだ。

専門家からすると、必ずしも正しくない物言いや正確性の落ちる表現というのは、憚られるものである。しかし、一般人にとってはそうでもない。正確で困ることはないが、少しも間違いのない説明を常に心がける変人はそう多くない。

彼らが専門的な情報を受け、小規模な集団へ拡散する。そこで自然科学的な情報が上手く感情へ変換されれば、物理社会学よろしく、状態のドミノ倒しの様な変遷が起きるきっかけとなるのではないだろうか。

 

以上

 

 

以下雑記

通学(夏休みなのに)中にスマホへ打ち込んだ文章が半分以上飛んでしまった。気が付かずに記事をリリースしたが、よく見ると未完であったため急いで書き下ろしたものである。気が向けば(いつも向かないが)修正の心持はある。