ココボロだとか好きだとか

社会人・通信大学生による独り言と備忘録

横浜

横浜、幾度となく通ったその地に久方ぶりに降り立ったのだ。

 

当日の私は一分の隙も生まないように、杢の入った厚手の明るいグレーのタートルネックニットに、同じくフランネルの柔らかなウールのトラウザーズを合わせて、そして、いつ、人に触れられても良いようにカシミアの外套を纏っていた。

 

約束の店には、馴染みの顔が既に一角を占めており、かつての憧れの人に戸惑いながらも席を選び、同窓の思い出を語るよりも先に近況を話し始めたのだった。

 

 

 

「苗字が変わりそうな人はいないの」

 

誰かが放ったその言葉に反応したかの女の声を、私はしっかり聞けていたのかしらと今でも思う。当たり前ながら、というよりも屹度、そうでなければ可笑しいくらいに当然の出来事なのでしょう。私が憧れるようなヒトなのだから、真っ先に幸いになるべき善い人に決まっている。だからこそ、論理的には当然受け入れられるべきなのだけれど、愛だ恋だを語ろうとする私自身の頭の内には、もはや感情以外の要素が残っているはずもなく、咄嗟に身の内話を始めることで耳に入れたくない現実を遠ざけたのであった。

 

嗚呼私は、今の恋人と共にいる心算であるのに、どうしても消えない過去の思いをいつまでも残しておくつもりでいるのだなと、飼いきられない自身の思考に恨みを述べるのである。

 

思えば私は昔から、過去の出来事を何とか頭の中に戻しては、またどこかに仕舞い込み、いくらでも反芻してその感情から得られる"栄養"なんぞを味わい続けているのだ。もちろんそれは、決して美味たるものでもなく、受け入れ難かった過去の現実を以て、至らない現在の自分自身を揺さぶる原動力を得んとする後ろ向きな姿勢であって、多分こんな感傷的な方法は、もっと若いうちに捨て置くべきであるのだろう。

 

私はいつも、ナニカに対する憧れ若しくは、自身に対する至らなさについてばかり文字を書いては、同じ結論を導き出している。それはいずれも、善く生きることに対してのコシュウで、非道く生きたことに対してのケイベツである。

 

 

 

自宅への帰路で、私はもう、憧れすら移れつつある自分自身にも共に失望していた。私の今は、叶わなかった現実を将来に顕在させるべく奔走した結果であって、その根本にあったはずの憧れを消すことは、その意義を全くなくすことに違わないのである。つまり、私はそこに自己同一性への懐疑を見出しているのだ。

 

どのように考えても、私は正解通りの言動を積み重ね、何事もなく善く家路へ着いたのである。しかしながらそんな現実とは裏腹に、私自身の感情はもはや善くあることを願っておらず、好い人への憧れを願っているのだ。そこにはもはや肉欲的に係る思いは在らず、精神的な自己満足だけが残っていて、その人に関わる私の言動には終ぞ価値があったことなど無いと分かりきっていていながら、何も伝えずにいることが憚られる思いであった。まあ、何も告げずに帰ることができた私には、多少なりとも理性的な部分が残っていたと思うべきで、結果としては、なに一つのきっかけもなくてよかったのだろうけれども。

 

 

 

長くなった。詰まるところ、冴えない人間が過去の恋愛への後悔を恥ずかしげもなく衒学的に垂れ流し続けているだけの内容である。願わくば知る人の目に届かぬことを、などと言いがらも私は、外に向かって心持を残したいのである。