ありふれた言葉を抱きしめるだろう 向うの見えない花束のよう
私は文章を書くことが好きだ。といいつつも、今は書くのではなく打ち込むことが多いのであるが...
私はかつて、詩を書く少年であった。そしていつの日だったかは定かではないが、少年は自分が詩人ではなかったこということを発見したのである。以来彼は、厭にむつかしい言葉を嫌うようになった。できる限り平易な言葉で、衒学的ではない文章を好むこととなったのだ。
小林秀雄は『様々なる意匠』にて、以下の通りに語っている。
人はさまざまな可能性をいだいてこの世に生まれてくる。彼は科学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう、しかし彼は彼以外のものにはなれなかった。これは驚くべき事実である。(小林秀雄, 様々なる意匠・Xへの手紙, 角川文庫, p9)
そう、少年は自らの中にある"さまざまな可能性"を発見し、そして詩人であるという可能性を棄却したのである。彼は、彼でしかいられないと気が付いたとき、詩人性というものが急に揺らいで見えたのだらう。主観と客観、私にとって主観は一つしかなく、客観は無数に存在する。ならばこそ、主観で語る以外の方法で文意を特定できるはずがないのではなかろうか。私達が求めるのは客観性などといったものではなく、どの主観からしても同じような推論を導き出すことができるほど十分な情報なのである。十分な情報とは、文学に存在するのであろうか。こうして、私は科学者になったのだった。
意味のない言葉を繰り返すだろう 向うの見えない花束のよう
そして同義語反復にすぎない文章を多く書き始めた。日常語を繰り返すだけの文章では、論理値が増ないだなんてのは明白であった。であるからして、どんな風に物語ろうとも、同義語反復を避けることはできない。文章とは、もはや論理的な作業を行うものではなく、それ以外の効用を拠り所にするほか、続いてゆく方法がなかったのである。かくして、文章は生活を語り始めた。
甘いニヒリズムが笑う時にも and love and love and love and dream
and love and dream for all
かつて、どうしようもないほどの執着をした。これを、恋だと言い張るつもりもないくらいの。だから、私は夢を見たのだ。一番になるのだと。昇華と言えば聞こえがいいのかもしれない。どちらも叶わないまま今に至り、私はいつまでも夢を夢見ている。夢を見続けなければいけないのは、夢がかなわないで居続けるから。あゝ、もはや答えはどこにもないのだと、虚無感に苛まれる。だからといって、夢が破れるわけでも叶うわけでもなく、私は、昨日の私がそう行ったように、一度諦めたはずの固執と夢とを反芻するのである。
文章中の引用のうち、特筆がないものはFlipper's Guitarの『ラブ・アンド・ドリームふたたび』より引用した。