ココボロだとか好きだとか

大学院生による独り言と備忘録

トリチウムについて

幼い頃からの友人と話をして少し考えがまとまったため、再び福島第一原子力発電所事故について考えたい。

今回はトリチウムについてを述べる。

 

ただし、本文中の数値に関しては必ずしも正確なものではなく、概算値を用いることや、簡便のために適当な数値を置く場合もある。また単位に関しても、概要を把握するためだけには一つ一つを理解する必要はないと考えるため、詳しい説明を省いた。

 

 

前提として、トリチウムとは三重水素のことである。通常、水素と呼ばれる元素はその原子核に陽子を1つ、中性子0つだけ持っている。そしてこれをHと表す。しかし自然界には陽子1つと中性子1つを持つ重水素(Dと表す)、陽子を1中性子3つ持つ三重水素(Tと表す)とが存在する。

これらの三種類の水素では化学的性質は同じである。なぜなら化学的性質は電子の数によって決まり、その電子の数は陽子の数によって決まるからである。

 

しかしこれらの三種類の水素では物理的性質が異なる。物理的性質は原子核の陽子の数と中性子の数で決まり、HとD、Tでは物理的性質が異なる。例えば、HとDとは安定同位体(放射線を出しにくいor出さない)だが、トリチウム(T)は半減期が約12年ほどの放射性同位体(不安定)である。

 

注意事項として、これらの水素は全て自然界にも存在している。トリチウムも全体の割合としては極微量(10^-18のオーダー)ではあるが存在している。また、ここではごく微量という表現を用いたが、あくまで水素原子全体を比較対象とした場合であり、絶対量ではそれなりに多くの量存在している。

 

 

以上がトリチウムの概要である。

 

そして今回話したい内容はその処理についてである。

2020年3月、東京電力は約30年かけてALPS処理水を海洋、もしくは大気排出する処理案を公開した。このALPS処理水にはトリチウムが含まれている。

私はこの処理案に反対である。

なぜならこの処理案では「トリチウム濃度を国の基準値の1/40として排出する」とあり異様に濃度が小さくされているからだ。

もちろんできる限り小さくしたほうが安全である。しかしその"すごく安全"にかかる費用は、"少しだけ安全ではなくなるが費用が安くなる"場合と比べて適切だろうか。

 

 

 

話は少しズレるが 、私は科学をするためには確率と濃度の理解が必要不可欠であると考えている。今回かかわるのはこの濃度であり、基準値の濃度のトリチウムと、基準値の1/40の値のトリチウムによる影響をたとえ話から探っていきたい。

 

まず、前提として基準値は十分安全に配慮した値で作られている。例えばエレベータの耐荷重量が2000kgだとしても1500kg以上乗ったらブザーが鳴るといったように。

基準値を超えたからといって直ちに影響が出るわけではない。しかし基準値を超えた状況が蔓延すると、パーツ寿命が短くなったり不慮の事故が発生する確率が増加する。ここで忘れてはいけないのは、基準値を守っていても不慮の事故は発生する可能性があるということだ。もちろん殆ど無いだろう。しかし0ではない。

 

そして今考えたいのは、では何kgまでならこのエレベーターに乗るのかということである。ブザーは1.5tで鳴るので少なめにして1tで乗ることにしよう。それぐらいが普通ではないか?

1.5tでブザーが鳴るなら1/40の37.5kgまでしか乗らないようにしよう。となるだろうか?

もし仮にそんなことにしたら大抵の人はそのエレベータに乗ることができない。

1/20にすれば大人一人は乗れるかもしれない。しかし二人は乗れないだろう。基準は大人が20人以上、ブザーが鳴るのも大人が15人以上なのにである。

 

これは非常に非効率的である。大人が本来ならば15人ほどは乗れるエレベータをわざわざ一人用として使い、その分何度も往復しなければいけない。安全のために時間とエネルギー(費用)をドブに捨てるようなものである。

安全は重要であるが過度な安全を作るためには膨大な費用と時間がかかる。

本当に考えるべきはその費用対効果であり、その安全を得るためにかけるコストは適切かどうかである。

 

私は今回の処理案にある「トリチウム基準値の1/40にする」ために使うコストは不適切だと考える。

そんなことに無駄な費用をかけるよりも、福島の復興にもっと金を回すべきである。

 

トリチウム濃度を1/40にしようと1/2にしようと危険性なんて対して変わりはしない。99.9998%安全なものを99.9999%安全にするために三十年も必要だとするのならやらないほうがマシである。その浮いた金と時間でもっと大切なことをやるべきなのだ。

 

 

 

以降は私のただの文句であるが

 

処理水なんて47都道府県に配って各自適当に放出すればいいのである。

あるいは東京電力が電力を賄っていた関東圏で分け合えばいい。そして5年ほどかけて放出すればいい。

そうすれば風評被害もなくなるだろう。日本全体がみんな被ばくするのだから、福島のことを悪く言えるやつなんていなくなる。

多くの人は不快に思うだろうし、私もコスト的には合理的ではないと思う。しかし、合理と感情の兼ね合いを考えるとこれが一番だと思っているのだ。

 

それに電気を使ったのは私達(私は関東圏の人間だからこの表現を用いた)である。その分ほんの少しだけ、放射線にあたる。耐えられないだろうか?

無責任ではないか

巷では1/40にしようとも文句を言う奴らがいる。私は感情論を否定しない、なぜなら感情は人間性であり、感情論の否定は個人の否定であり、科学への絶対的信頼は、数字の絶対視は人間性の否定であるからだ。

だが、感情論を肯定もしない。明らかに非合理であるときはそう言わねばならぬ。

 

私には好きな話がある。

 

それは「道を歩けば最悪死ぬ」という話だ。この世の中には交通事故がはびこっている。家の外に出るだけで車に轢かれる可能性はある。最近では民家に車が突っ込んだ事件もあった。家を出なくても最悪死ぬのである。

死なないために地下に潜っていき続けるだろうか。放射線を少しも浴びないために10cm厚の鉛に囲まれて暮らすのだろうか。

いいや無理だ。極微小なリスクは許容するべきである。

死なないために不合理を受け入れるべきではない。外を歩く便利さを捨ててまで生き抜こうとするべきではない。

 

「合理的に達成しうる範囲で限りなく低く」これは放射線防護の基本となるALARA(As Low As Reasnably Achievable)の原則と呼ばれるものだ。

この原則は何にでも当てはまる。じっくり味わってもらいたい一文だ。

 

それでは、もう一度トリチウムに関して考えてみよう。

1/40は合理的だろうか? その処理費用の使いみちは、40年分の人件費や処理機の稼働費は本当に必要だろうか? それをやめて福島の復興に、高濃度放射性廃棄物の処理にお金を使うほうが合理的ではないだろうか?

 

 

こう言ってもいいだろう 

処理水を海洋放出しないのならどうするのだろうか?
高濃度放射性廃棄物と一緒に埋めるのか?

その金はどこから出る?

考えればわかるだろう。

 

安心のために金を浪費するべきではない。

限られた金でできるだけ安全を再現するべきなのだ。