ココボロだとか好きだとか

大学院生による独り言と備忘録

気ままに

最近は月刊ブログになっている気がする。

なんとなく書くことがないというか、書いている途中で別の作業を始めてしまって、ついぞ書ききらないままになってしまっている。

仕方ないから、どうでもいいことを思うままに書き綴ることとする

 

1. QRコード

便利な道具だ。私が小さいころは参考リンクといてばURLのベタ打ちだった。それは印刷物でも当然であり、いざ調べようと思ったらURLを打ち込まざるを得ず、なかなか苦労した記憶がある。というか今でもそれが一般的であろう。

しかし昨今、気が利く印刷物にはほとんど必ずQRコードが示されている。それをスマホで読めば簡単にページに飛ぶことができるため、ありがたいことこの上ない。だが、ここで問題がある。そうQRコードの作成である。

インターネット上には数多のQRコード作成アプリ(ウェブアプリ、パッケージの両方)が存在するが、ここに落とし穴があるのだ。まれに偽装QRコードを作成してくるアプリがあるらしい。さらに(悪い意味で)気の利いたものでは、多くの場合は意図したURLに、数回に一回は別のURLにリンクが飛ぶように設定されているらしい。これは巧妙である。

QRコードを作成する際に、大抵の場合はチェックの為に一度くらい読み込んで試してみるが、それを看破するために確率を取り入れる。面白いと思ってしまうが、悪質である。

 

じゃあこれからどうしていこう、そう思っていた時に発見したのがエクセルだ。エクセルをうまく利用している人間には有名なのかもしれないが、エクセルでもQRコードを作成できるらしい。

手順はやや煩雑であるためここでは紹介しないが、こういったものはググればすぐ出てくるのでありがたい。一回試しでやってみて成功すれば、あとはそれを覚える必要はなく、必要になった時に改めて調べてその手順通りにすればいいだけなのだ。

 

ということで試しに作成したのがこちら。

ブログトップへのリンク(QRコード

よく見るとすべてのマスが切られており、なんとなくエクセル感?がある気がする。繰り返しになるが作成はやや面倒であった。しかし、これで安全にQRコードができると思えば安いものである。

 

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追伸

なんならChromeQRコードが作れるらしい。

これはエクセルなんかよりもはるかに簡単でかわいい。難点を言えば、色の変更ができないことだろうか。

やり方は右上の「三つ点」ボタンを押して、保存して共有というタブからQRコードを作成を選ぶだけだ。簡単すぎる。クロームの恐竜も可愛いし、あまりかっちりとしていない余所行きではこれの方がいいかもしれない。

ChromeQRコード(ブログトップ)

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2. 勉学について

私の専門は原子力工学であり、現在は修士1年、絶賛就活中である。

そしておそらく就活は4月、遅くても6月には終える予定であり、(理系のはずがほとんど文科系になってしまった)私は研究室に足繁く通う必要はなく、修論はそこまでハードルが高くない。なんならこの3月までに多少のデータがそろいそうまである。

そこでだ、来年度何をするかが課題ではなかろうか。個人的には、もともとは大学院入学と同時に入るつもりだった慶應の通信が再び気になりだした。

法学、特に法哲学と政策に関連する部分に興味があり二重学籍が可能な通信大学として慶應を考えていた。しかしながら、現在通っている大学の教務課からは二重学籍はダメと言われてしまい泣く泣くあきらめていたのであった。

しかし、ここで活路を一つ見つける。それは科目履修生である。慶應の場合は科目履修生として履修した科目を卒業単位として含めることが可能な場合があると募集要項にある。私が思うに、慶應通信の卒業ハードルは一部の困難科目と卒業論文、あとはスクーリング科目である。そしてこの一部困難科目とスクーリングを在学中に済ませたいのだ。

私は人文科学に片足を突っ込んでいる都合上、博士までは進学しない予定である。そのため絶賛就活中であるが、さすがにフルタイムで働きながらの慶應通信は難しいだろう。卒業要件は124単位でありうち卒業論文が8単位、かつ学士入学は40単位が認められるので、正味必要な講義単位は76科目である。科目等履修生は年間10単位までしか履修できたいため、ささいなものかもしれないが課金する価値はある気もする。費用は

受験費用 2万

登録費用 4万

授業料金 5万~7万

 合計  11万~13万

であり、まあ許容範囲である。

 

だがこれ以外にもやりたいことはある。それは副専攻である。私の所属する大学院では副専攻も存在しており、やや気になる副専攻がある。必要なのは10数単位であり、おそらく半期あれば十分に対応可能である。それに副専攻なら費用が掛からない。指導教員への相談が必要であるが、人柄から鑑みるに二つ返事で頑張ってくれと返してくれそうである。

てか、どう考えてもこれが一番だろうな。金もかからないし、興味のある分野を学べる。うちの大学には法学は充実していないのでそれは後回しになるが、経営や経済学にも興味があるので良いだろう。それに、この分野なら頑張れば、事例研究をそれなりに自力でも行える気がしている。

 

もう一個思い出した、それは甲種危険物取扱者である。これは在学中にとりたい。てか、本当なら履歴書を書く前に取りたかった。このままだと乙種を4種類書き綴ることになってしまうので、なるはやで取りたい。来年度の目標で良いか。あと、英語試験も。TOEFLをちゃんとやってTOEICも一回くらい受けてみたい。

 

 

3. まとめ

ということで今回もどうでもいい話を書き綴ってきた。こういった文章を作成することは明らかに自分の為であり書いているうちに頭が整理される。もちろん、この文章は整理されていないうえに、推敲もされていないのでひどく退屈であろうが、仕方ない。こんなものはGoogle Driveに日記としてでもつければいいがこのまま公開することとする。

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追記

適当に書いたこの記事が「きょうのはてなブログ」に載ってしまったので、絶賛後悔中である。

本稿よりもまともなブログ記事を以下にまとめたので、気になったら見てみて欲しい。

taro0219.hatenablog.com

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私の恋と東京に寄せて

好きだったはずのその声だけが思い出せない

-私の恋と東京(詞:土岐麻子大江千里)-

 

私にとって東京は憧れの町ではなかった。関東平野の田舎で生まれ育った私は、気が向けばいつでも東京に上ることができたし、そのために乗る電車はいつも混んでいて頻繁に訪れたいとか、あるいはそこに住んでみたいとは思えなかった。

だけど、渋谷だけはあの渋谷系と呼ばれる音楽のように煌びやかで明るい街だと考えていた。実際はそうじゃなかったけれど。

 

2021年7月、銀座。歩行者道をゆく人影はまばら、休業中の看板が目に付く。焼き付くような暑さの中に、私だけがインターンへと向かう大学生のようにスーツを着込んで歩いている。

それなりに服が好きな私はつい、周りの人の服装に目をやりながら歩いてしまう。東京とは不思議な街で、駅をまたぐごとに人々の服装が全く変わってしまう。なんてのはもう何番煎じってくらい言われているけれど。スーツや革靴なんかが好きな私は銀座を道行く人の服装に憧れているから、東京(駅)へ上る時には必ずと言っていいほどスーツを着てしまうのだ。それが夏であっても。

 

閑話休題

 

東京の話ばかりしてしまった、タイトルは私の恋と東京に寄せて。

私の恋は大学生になった夏に始まった。終わりは知らない。

春に、「憧れの人が忘れられない」とは告げぬまま別れた恋人。あんなに長くいたのに、別の人を好きだなんて言って傷つけてしまいたくなかった。自分勝手だけれど。

数か月ぶりに夢で出会った君は、当時私が好きだった香水の匂いをしていた。

 

 

なんて未練がましいことを思いながら、結局原因となった手の届かなくなった憧れの人とは10分くらいしか話ができず、もう、いくら待ったって返信が返ってこないとわかりきっているSNSに、魂が吸い取られるようになっては暑い夏を感じないくらい寒い部屋で一人うずくまっていた。もうやめよう。そんな時にふと、恩があった方を食事に誘いそこでまた恋に落ちた。なんていうと自然みたいだけど、きっと本当は、目標がなくなった自分を奮い立たせるために、何とか代わりの偶像を見つけ出そうとしただけなんだと思う。そう頭で考えながらも、ロザラインをあきらめジュリエットとの恋に落ちたロミオを気取りながら生きることにした。心は偉大だからね。

 

 

私が再び目標を手にしたその日。もうあの日だろうか、私は生まれた。かつての私は恋に殉教し、再び生き返ったのだと。

 

我ながら気持ち悪い文章を書いてしまった。いつものことだったかも。

東京の丸の内にある「三菱一号美術館」。私一人の思い出の場所である。

当時の展示会はマリアノ・フォルチュニ。目まぐるし速度で変化を繰り返す絵画に、いくつも飾られたデルフォス、私はかねてから美術館へ訪れることが好きだったが本当の意味で芸術を考えるようになったのは、彼の展示会がきっかけだったのかもしれない。

 

あまりにも衝撃を受けた彼の展示会に好い人を連れていきたいと思った。しかしそんなことは夢のまた夢で、かなう事なんてなかった。それを分かりきったまま、連絡を取り続けた。あの人に渡したものと同じ、ヴァニラの香りがする紅茶を啜りながら。

 

私にとっての東京は銀座を中心に広がっている。私は片田舎の育ちだから、東京で恋に勤しんだ経験はない。けれども、東京はいつまでも独りであった私にとって何よりも恋を想った街である。

CLOVERの話

私がいちばん好きな漫画家(集団)はCLAMPで、その中でも『CLOVER』が好き。

『CLOVER』は、元軍人の主人公、琉がスウという魔法を使うことのできる少女を遊園地まで送り届けるという全四巻からなる短いお話。少しばかりディストピアチックで、スチームパンクな世界観を持ってる物語です。一応未完なのだけれど最後の発刊から20年も経っているので続きは出ないのかなと思っている。

1巻はスウを遊園地まで届けて終了、2巻以降は琉やその旧友である銀月、スウ達の過去が語られていきます。

 

今日の主題は『CLOVER』の芸術性について。なんていうと仰々しいのですが、純粋にこの作品を世間一般の漫画として話すというのは何か違う気がするのです。どちらかといえば、『CLOVER』の芸術性は純文学のそれに近く、お話そのものやその語り口にこそ美しさがあると思います。これは別に漫画という手段を貶めているわけでもなければ、表現の手法の高尚さなんてものを語るつもりもありませんが、私には『CLOVER』は『ツバサ・クロニクル』や『カードキャプター・さくら』といったより大衆的な漫画とは異なり、彼女らの持つより根源的な芸術性を主題とした作品のように感じられるのです。淡々としてた状況描写にコミカルな表現を行わずしっとりと続いていく登場人物らの会話、"必然性を感じられる彼らの行動"が純文学らしいのです。

私にとっての純文学は、"一つのルールに乗っ取って廻っていく作り物の世界"のことです。純文学において、私たち読者は、その世界のルールをはっきりと理解できているかどうかは別として、そこの住人の言動に必然性を感じ取ることができると思うのです。現実世界の様なまどろっこしさはなく、ただ純粋に言動を抽出することができるからこそ、筆者は、その語り口や表現に拘り、"純"文学を行う事ができるのだと思っています。

 

例えば、私がよく引く太宰文学なんかはその典型です。『人間失格』について語るとき、おそらく多くの人間は主人公である大庭葉蔵へ感情移入をしないでしょう。彼を可哀想だと思う人間がいなければ、だからと言って彼を強く非難する人間もそういない。一見、目に映らないガラスの壁が私たち読者と葉蔵との間を阻むのです。

そして太宰文学は何も語りません。彼の提示する世界の中のルールで人が生きて死ぬ。その光景を私たちは安全な場所から眺めるのみであって、葉蔵のふとした言葉に感銘を受け勇気づけられたり、あるいは彼の言葉を間に受けてひどく考え込むこともないのです。それはまるで、朝目覚めた後に一口含む透明な水のようであり、確かに我々の中に入って来やするが、その実ただすぐに体外へ流れ出てしまう水そのものなのです。

太宰文学について言葉が続きすぎました。閑話休題

 

CLAMPの『CLOVER』と言う作品は全く同様の効果を持っていると私は思うのです。それこそ、ただその作り上げられたルールを眺め、ほんの少しだけ決められた仕事をしてすぐに私たちを置いて消え去る水のような印象が、『CLOVER』にはあるのです。

私の人生を変えてくれた書物は確かにあります。『後世への最大遺物』など。しかし『CLOVER』は私の人生を変えないでいてくれたのです。そしてそれは、勇気づけもアドバイスもよこさないからこそ純粋な文学で、純粋な娯楽であり続けるのです。

今日の話

1. 仁丹の導入

仁丹(メタルケース)

 

口内ケアに気を使っているだろうか。ガムやタブレット、マウスウォッシュや舌磨きなどなど様々なグッズが存在するが、私は基本にタブレット、その中でもミンティアを愛用してきた。

いつもながら、それに特段の理由はなく、気にし始めた当時の友人が常にミンティアを持ち歩いており、飲み会の度に一粒譲ってくれていたことに影響を受けただけである。

 

そうしてミンティアを持ち歩く日々が一年くらい続いたが、なんとなく好かなかった。共感してくれる人も多いかと思うが、ミンティアはおなかが緩くなる気がする。私は禁煙歴がなければBMIも普通の範囲内であるが、なんとなく口さみしい感覚を受けるときがあり、そんな中でミンティアを常備していると、ついつい口に運んでしまい、日に数個も食べてしまうと体調がちょっと悪くなってしまうばかりだった。

 

色々思いつつも、結局いいものには当たらず、ガムだと後処理が面倒だしマウスウォッシュやらを持ち運ぶのもはばかられる。結局タブレットがよいなあと思いつつ発見したのがこの仁丹だ。仁丹の再発見。

 

 

中身

 

昭和のおじさんの必需品みたいに言われるようだが、正直未だ学生の身分である私にはよくわからない。仁丹。その名前を聞いたことがないか、と言われると聞いたことはある気もするけれど、なんだと聞かれると答えられない。それくらいの認識しかない商品であり、プラスの印象もマイナスの印象もない。古臭い印象すらないのだ。

 

私の購入した商品は、180 [粒/包] × 4 [包] = 720 [粒] 入りで、金もしくは銀色のケースが付いてくる。このケースは 68 [mm] × 15 [mm] 程度の大きさで持ち運びには非常に適したサイズである。太い方のパーツの天井にスプリングが仕込まれており、ボールペンのように頭を押し込むことで、上下パーツの孔と孔が一致して仁丹が出せるようになる。押さない限り匂いも閉じ込められているし、そこそこよくできている。

なお、このケースカラーは選べないことがほとんどな模様。悪しからず。しかしながら高々仁丹ケースだからいいだろう。私はヨドバシカメラの通販でよく時計ベルトを買ったものだが、尾錠の色が選べないのには納得いかない。時計と色と違ったら普通気になるだろう。まあ、元の尾錠を付け替えるからいいのだが。閑話休題

 

仁丹の服用は胃の不調の際にはそのまま嚥下、口内ケア(口をすっきりとさせたい場合)としてはかみ砕けばよいらしい。服用は一回10錠で一日10回まで、つまり100錠まで飲めるらしいので、ミンティアの様な体調不良にあたることはまずなさそうなのが安心である。

レビュー等でも言われる匂いだが、正直私はあまり気にならない。ちょっと独特な香りがするのは確かであるが、薬草と言われて想像するような少しスッとする雰囲気で、香ろうと手に出したが、自分の手の匂いに紛れてしまうくらいには弱い香りであった。

また、味についても生薬と言われる少しの苦さと清涼剤のさわやかさの相まった、いたって普通のもので特段コメントはない。

 

そんな仁丹であるが、さて、いつまで続くだろうか。今年はさほど飲み会の予定もないため活躍は少ないかもしれないが、まあ、今年度いっぱいくらいは試してみようと思っている。

 

 

 

2. 撮影会

久しぶりにカメラを持って外へ出かけた。

この半年ほどはカメラを持って出かけることが少なかった気もする。前期の内は授業が多く、休みが少ない上に休日はバイトに出かけたりしていたため撮影を行う機会がなかった。そのうえ、少ない休みは別の目的で人と出かけることも多々あり、自分一人でカメラを持って出かける機会を作れなかったのだ。

ちなみに、私は人と出かける際や旅行の際にはほとんどカメラを持たない。私が撮影したいのは日常であって、特別な場所ではない。知人との外出は、わざわざ人の歩みを止めてまでカメラを取り出す心算もないし、旅行の内容は、ipadに記録をしたりするのでカメラは必要ないのだ。

 

撮影は全てKonicaminolta α sweet digital

 

陽の傾き

絞り : f/13

露光時間 : 1/800

ISO : 400

 

 

 

 

絞り : f/6.3

露光時間 : 1/160

ISO : 100

 

今回は二枚だけ。ちょっと時間がある時に出かける公園での撮影であり、本ブログで書いた撮影会という名目の中では、何度か登場しているいつもの場所である。

もうちょっと撮影した写真はあるが、私は人と比べると枚数が少ないだろう。今回も、没になったものを入れてもおそらく30枚は撮っていない。これは、フィルムカメラ(特に12枚しか取れないブロー二―)をきっかけにカメラを始めたための嫌いかもしれない。

まあいずれにせよ、対してよい写真が撮れなかったうえに、未だに逆光気味の構図にハマっており、進歩が見られないことも悩みどころではある。

 

焼き直しの文章について_私がブログを書く理由

 

彼の文章には、文学的な新鮮さが香るものの、その実、そこには全く新しいものなんてないのである。(中略)一見新しく見えるものは、一見古くも見られる。それはまるで書き改められた羊皮紙、あるいは何度も糸を紡ぎ直してはその度に織り直されてきたタペストリーの様であった。

(プラトンプラトニズム[1] より引用、筆者訳)

 

私がブログを書く理由。それを端的に言えば、焼き直しに価値を感じているからである。

 

冒頭の一節は、アメリカの文学者ウォルター・ペイターによるプラトンプラトニズム』の中の一節である。彼はプラトンの文章に対し、美しさといった文学的価値を認めて称えつつ、しかし新しいものなど何もなかったと評してしているのだ。もちろんこれはプラトンに対する批判でない。それどころか寧ろ文学を端的に表現した、最も上等な賞賛だといってもよいだろう。

 

私の生きる科学の世界では論文によって評価が為される。そこには文学はなく、論理によって良し悪しが分かれるのだ。自然科学は特に一般化された論理を良しとし、主観を取り除くための多くの努力が積み上げられてきた。

その一方で、芸術はそうはいかない。論理が重要であるにせよ、なぜそうしたのかといった主観的な判断、もっと言えば、人の根源にあると思われる感情にこそ、良し悪しを分ける分水嶺があるのではないか。そして「誰が言ったか」という説得力の水源となるのだろう。

 

 

こんな芸術論を語っても仕方がないか。だって、誰かがすでに行っているだろうから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本当だろうか?

私は誰かがすでに行っている仕事にすら興味があるのだ。確かに、その誰かは私よりも良い文章を遺したのかもしれない。傍から見れば、私のこのブログなんて、誰かの焼き直し、車輪の再開発、既に書かれた羊皮紙、あるいは古のタペストリーなのかもしれない。しかし、私はそれに価値を見出しているのだ。

タペストリーを紡ぐその糸が、古より何度も織り直された使い古しだとしても、糸の織り合わせが変われば全く新たな香りをもたらすかもしれない。

誰かが書き記した羊皮紙だったとしても、その一部を削り書き直すことで全く違った趣を持つかもしれない。

 

だから、私はブログを書くのだ。

 

 

 

私の文章はナニカの書籍の焼き直しかもしれないし、私は誰かの劣化版かもしれない。それでも、そこに価値は見出せるのだ。かの哲学者ホワイトヘッドは、「西洋哲学の歴史はプラトンの注釈に過ぎない」と述べたらしい。全く結構ではないか。

その注釈の有無で、言葉を受け止められる人が増えるのかもしれないのだから。

 

 

 

[1]Plato and Platonism, Walter Pater,1893 ※

※私の知る限り邦訳は出ていないが、まま、引用のため書名が掲載されることがある。その際は『プラトンプラトニズム』あるいは『プラトンプラトン主義』という邦訳題名が用いられる場合が多い。なお、原本は Project Gutenberg(海外版の青空文庫のようなもの)で読める(https://www.gutenberg.org/ebooks/4095)。

 

 

 

特別お題「わたしがブログを書く理由

科学の範囲と処理水放出に関する雑考

科学がおよそ語り得るものについて。

 

 

 

はじめに

私の学ぶ分野において、ここ最近ではとある大きな話題が世間を騒がせている。もちろんそれは福島第一原子力発電所事故における処理水の取り扱いについてで、処理水放出、トリチウム水問題、云々である。

 

私は何者か。私の専門は学部の頃から原子力であって、中でも絞るのであればリスク評価や科学コミュニケーションの分野、特に廃止措置や使用済み燃料といったバックエンドと呼ばれる部分に興味が向いている。

 

私は今回語りたいのは自然科学の範囲であって科学そのものではない。ぼやけた輪郭を引くだけであって、その内容まで詳らかに話すつもりはない。

 

 

 

自然科学の理念と適応範囲について

哲学から自然科学というものが独立した時期、自然科学とは真理探究においてその心理的な要因を取り除いた唯物主義に根ざしていた。神学や哲学が、唯心論を根底に置いたことに対応して、科学は徹底的な唯物論を元に語られた。物の情報を集めることにより、物の未来を語ることを目指した。

もはや固執とも思われる主観の排除。それは唯物論による当然の帰結で、自然科学とは個人を問わずに再現性を担保した(と思い込んでいる)科学である。

 

一方で、人文科学は端から心理を包含していた。心理学なんてものは、自然科学とは全く独立をした科学であって、大まかに言えば個人の性質を廃していない。あくまで、確率統計という手法を用いることによって、傾向を知る術に他ならない。それは大数を相手取ることによって平均化を行い、恰も個人差がなくなってしまった(傾向に紛れてしまうこと)ように見えるだけであって、十分有効な科学ではあれど、自然科学のように未来を語り得る学問ではないのだ。

 

では本題である。自然科学は処理水放出の何を語るか?

原子力業界や政府機関は科学的根拠を大々的に押し出し、風評被害を抑えることを目指している。しかしそれは妥当であろうか。私にはそうは思われない。

風評とはそもそも自然科学と全く関係のない噂である。それは感情に根差した言論であり、自然科学とはそもそも相容れないものだ。

ただし、重要なことは風評が悪いものではなく、感情だって悪ではないという点だ。

確かに、我々は科学なる文化を尊ぶ現代人である。しかし、我々はどこから来たのかを今一度考えるべきだ。確かに自然科学の出現は人類史を語るうえで非常に重要なものを示すが、それ以前に我々は感情により幾年をも生き抜いた人類である。だからこそ、感情を全く抜きにして物事を語ることは容易ではない。

当たり前のことだ。私はよく言うが、家の裏に墓地や寺ができると聞けばそれに反対意見を示すだろう。そこにあるのが全く感情的な要因のみであり、科学(特に自然科学)的になんら変化がないとしても、なんとなく嫌なのだ。

きっと多くの人が、トイレを洗ったスポンジで風呂掃除をしたと聞いたら、なんとなく嫌悪感を示すだろう。では、自分の歯ブラシでトイレ掃除をされたと聞いたらどうだろうか?いくら、掃除の後にスポンジや歯ブラシを除菌したと言われたとしても、厭だと思う人間の方が多いだろう。あるいは有名な裁判例として、飲食店のさらに排尿をした被告人が、器物破損の有罪となったものがある(大審院明治42年4月16日判決)。被告人は物理的に皿を破損したわけではないが、心理的に再び使うことを著しく困難にしたことにより、器物破損の罪を受けたのだ。確かに、消毒・洗浄を行えば汚くはないだろう。しかし、その穢れを取り除くことはできないのだ。我々にとって重要なことは、もしかしたら唯物論的で自然科学的な処理ではなくて、もっと感覚に根付いたものなのかもしれない。

 

そして、それは昨今の処理水でも同様で、なんとなく嫌なのだ。そしてそのなんとなく嫌と言う感情は、なんら科学的言論に劣るものではない。むしろ、感情を排した意思決定なんて非人間的な主張が罷り通るのであれば、効率化の名の下に個人自由主義なんて排されてしまうだろう。

我々原子力分野の人間や、福島近隣やその場に住む/故郷にする人々にとって、かの事故は忘れぬ一大事である。しかしながら、そのほかの人々にとって、少なくとも現代の風評というものは、自分自身の日常から離れた些末な事柄であるだろう。そんな些末な事象に対して、我々は深い思考を行わない。世界の裏側で苦しむ第三世界の人々や、難民の方々の話を聞いて心を痛めたとしても、問題解決のために重大に考える人は多くないだろう。もちろん、考える方が良いことはわかっている。それでも、何も変わらぬ日常を過ごす人間が多いだろう。これは当たり前のことで、誰もが自分に直接関係する事柄以外に多大なリソースを割くことはしない。それだけである。

 

 

 

おわりに

では、我々はどこへ行くのだろうか。自然科学が通用しないのだから無駄だ、というだけでは事態の進展はない。私の回答は、至極当たり前の答えではあるが、感情には感情でもって対峙するというものである。ではどのように行くか、思うに、信頼を使うしかないのかもしれない。奇しくも、私の嫌いなリスクコミュニケーションと同じ答えを言ってしまった。

その心は、人が感覚的な意思判断を行う根拠となるうえで大きな存在が、信頼性のある友人等であると思うからだ。小規模な集団における友人等の意見は感情に対して非常に大き影響を持つだろう。しかし、このままでは自然科学などを信ずる専門家は何も手の施しようがない。彼らは如何にすべきか。私は、科学に信頼を置く奇特な人間をハブにするべきだと思うのだ。

私にとっても、大抵の人にとっても、大抵の意思決定は感覚によるだろう。しかし、人々の中には科学的な情報に信頼を感じる人間もいるだろう。それは人単位ではなくて、どんな状況に何を重視するかであるのかもしれないが、科学的な情報を信頼という感情へと変えられる人間がいることは確かだ。

専門家からすると、必ずしも正しくない物言いや正確性の落ちる表現というのは、憚られるものである。しかし、一般人にとってはそうでもない。正確で困ることはないが、少しも間違いのない説明を常に心がける変人はそう多くない。

彼らが専門的な情報を受け、小規模な集団へ拡散する。そこで自然科学的な情報が上手く感情へ変換されれば、物理社会学よろしく、状態のドミノ倒しの様な変遷が起きるきっかけとなるのではないだろうか。

 

以上

 

 

以下雑記

通学(夏休みなのに)中にスマホへ打ち込んだ文章が半分以上飛んでしまった。気が付かずに記事をリリースしたが、よく見ると未完であったため急いで書き下ろしたものである。気が向けば(いつも向かないが)修正の心持はある。

 

グラスコード

紙袋

 

 

今更購入した。

Hender Schimaといえばグラスコード。グラスコードと言えばHender Schima。

 

グラスコードなんて何年前の流行りだろうか。いや、そもそも流行らなかった気もする。でもどうしても欲しかったのだ。

以前、華やかな場での事、友人は割としっかりとしたスーツにシルバーのコードを垂らしていた。それ以来、私の中ではグラスコードに対する憧れが巣くっていた。

 

 

ちなみに背景にある布地は先日購入したリネンのバスタオルである。リネン。一番好きな服地だ。ベッドリネン類(紛らわしいがベッドシーツ等の布地の意)もリネンを好んで使っている。ひんやりとした肌当たりにざらりと硬い触感、吸湿性と速乾性に富んでおり、どの季節でも快適さを損なわない。

この夏には半月ほど外泊の予定があるため、機能性に富んだバスタオルを用意しておこうと思い購入に至ったのだ。

閑話休題

 

ロゴ

グラスコードについて、革のブランドだけあってよくできている。細かく美しく作るというよりも、さっぱりとした、整った、という印象である。首に沿うようにゆったりと曲がったレザーは、銀面が首側、床面は背後側になるように作られており、このロゴは床面に入っている。床に入れるにしてはずいぶん綺麗なロゴの入り方である。

重要なコード部分である革ひもはしっかりと主張があるほど太く、滑らかにまとめられている。

 

お洒落なグラスコードを探した時、間違いなく挙げられるのがこの商品だろう。グラスコードの流行り(実際はさほど流行らなかったが)を作ったのはおそらくこのブランドで、これまでのグラスコードに対する印象を大幅に塗り替えた、転換点と言える商品である。

もう夏も終わるが、この期間はどうしても小物が必要だ。レザーの質感、存在が、ちょっと変わった雰囲気をもたらしてくれるとそう信じている。

あとは飲み会後、私はどうしてもその小物たちを取っ払ってしまいたくなる。そういった時は、毎日寝るときとシャワーの時以外身に着けているメガネですら外したい。しかし、鞄が小さいからメガネケースなんて持ち歩かないし、そのままポケットなんて入れられない。だからこそのグラスコードだ。

 

メタルチェーンを辞めたのは控えめな理由で、普段使う日本のメガネの内、片方がゴールドカラーのメタルグラスなので、それに引っ張られてしまうことが嫌だったからである。そしてレザーは黒。もちろん生成りにも惹かれたが、普段使う鞄や時計の都合上、黒以外の選択肢はなかった。

 

また数か月でも使ったら、追記をしたいと考えている。