ココボロだとか好きだとか

大学院生による独り言と備忘録

ノートブック

文字を書く。

この頃は、キーボードを使って文章を打ち込むばかりで、手を動かして文字を書き綴るという行為があまりなかった気がする。と言っても、週に一度は手書きレポートがあったからそれなりに、それなりなんだけれど。

 

私が使っているのは日本ノート株式会社の「Premium C.D.NOTEBOOK 無罫」である。

正直なところ、私はあまり紙質に拘りがない。どちらかと言えば書く道具の方が大切で、シャープペンの芯やら万年筆だとかの方を選び抜いて、ノートは適当なものを選ぶことが多いのだ。このノート、A4サイズでやや大きい。購入したきっかけを強いて考えるのならば、大学院受験のためだった、と言えるだろう。

 

丁度昨年のこの頃、私は大学院受験勉強に勤しんでいた。理系である私だが、あまり数学が得意ではなく、しかも受験先は数学ばかり。ただひたすらに数学ばかりやっていたのだ。そんな時に使っていたのがこのノートだ。適当に文字を書いても大きいからおさまりがよく、無駄な罫線がないから数式を気軽に書ける。

私は主に万年筆を使ってこのノートに文字を書くが、あまり裏映りが気にならない。確かに、裏から見えるのだが、目障りでない映り方なのだ。

 

初めて使うノートはなんだかもったいない。

だから最初は消せるシャープペンで文字を書いていたが、30ページくらい使ってようやく、消せないインクを使えるようになった。心持。

今では、大学院の授業にあたって適当に手書きをしたいときに使っている。もはや、もったいなさなどみじんもなくなってしまった。授業と言っても、ほとんどはiPadでノートをとる。この物理的なノートを使うのは大抵どうでもいい計算の時ばかり、理系には、どうしても物理的に紙にインクをつけなければ思考がうまく進まないことがあるのだ。

レポートを書く時の計算だとか、検算だとか、後は実験(講義としての実験、個別のノートを作るには回数が少なすぎる)の記録だとかに使っている。

私にとって大切なのは、しっかりと考えることではなくて、あまり何も考えずに筆を走らせることができつ状態なのだと思う。

このノートや使っている筆記具は、とにかく頭を使わないで済む。全くの引っ掛かりがないのだ。ただただ紙の上を滑り、何の邪魔もしない。あれ、いつだか同じようなことを書いた気がする。

 

 

とにかくいいノートで、しかもとにかくいいノートに"見える"。これが非常に大切なことだ。私は人からどう見えるかを気にしている。それは自信がないことではなくて、寧ろ自信がある自分を見せることに意義を置いている。私は"振舞う"ことが苦手ではないから、どう見えるかを考えた後の行動をとる。子供のころはむしろ、どう見えるかを気にし過ぎた結果、人前で話すのが過度に苦手だった。だって話す前から、"できないように見える"ことが明白だったから、私はもはや話したくなかったのだ。欠点が明白なのに直す術がない。だから私は人前に立ちたくなかった。

しかし、いつしか乗り越えた。あまりに苦手だった人前で話すことはむしろ得意になった。それは、私が苦手を克服しようとして努力したからでも、人目を気にしなくなったわけでもない。ただ単に、心身の成長に伴って、欠点を覆い隠すだけの力が養われたからである。それは、努力に依ったものではない。私は話し方を研究したことも、直そうと思ったこともなく、ただ、昔からずっと、どのように見えるかを気にし過ぎていただけである。

閑話休題

 

そんな私にとって一番のノートが「Premium C.D.NOTEBOOK 無罫」だ。

余りにも良いノートであり、思考の邪魔をしない。そして何よりもあまりにも良く見えるのである。

非日常と日常と

どこかへ足を伸ばすたびに、この先にどのような面白みがあるのかをつい考えてしまう。もちろん、何か特別な経験を得るなどと云うことが、至って普通の日常にいくらでも紛れているわけではないとわかった上で。

それでも旅行の日程中はどうしても思ってしまうのだ。私にとっての非日常であるから、そこにはナニカトクベツがあると。

 

これは、人間のきらいだろうか。

 

人は言う、海外旅行に行って世界が変わったと。しかし、真っ当だろうか?確かに我々にとっての海外とは、我々にとっての非日常である。ところが、その海外とは現地人にとっての国内であり、非日常とは彼()らにとっての日常である。しかして、非日常とはまさに全くの日常なのである。

 

ある絵を見た時、私はいたく感動した。それは清川泰次の「イタリーの空」である。彼の描く無対照芸術とそれに応ずる対照芸術の境目についてを思った。これはただの美術鑑賞であろうか。海外旅行と一緒ではないか。

私は確かにその絵から新たな視点を得た。しかしそれは、現地の清川が長年にわたり考え、生活をしてきた日常に過ぎず、旅行で訪れた私が面白がって価値観が変わったと叫ぶだけである。

なぜ私は、私の日常の中で同じ現象に疑問を持ち、それを深く考えることができなかったのだろうか。そこに気がつくことが才能や努力の為す術なのであろうか。

 

初めて訪れたスコットランドは、あまりにも私の故郷とかけ離れた姿をしており、私はかつての西洋画家を思った。ターナーである。彼はスコットランドの人間ではないがブリテンの人であった。

以前彼の絵を見た時、ただの表現に過ぎないとばかり思っていた。しかし違ったのだ。間違いなくその絵はターナーがその目で見たものであって、おそらく、彼はただ描いたのである。日常を描き、多くの人が日常をそこに見たのだ。

ターナーなら可愛いもので、ピカソ(いつも言うが、画家の名前をと言われた時に、ピカソやモネなんかを引くのはなんとなく憚られる)なんて云うものはその非日常を理解するための土壌を持たねばならない。

気がつくのはあくまで私であって、作品の内側にある美理(美術品に関するプログラミングコードのようなイメージ、都合上そう呼ぶだけで、読み方は考えてもいない)を思うのではなく、自分自身に内在する美術史、美学理論に照らし合わせてその一歩前進を探るのだ。

であるからして、我々にとっての非日常とは誰かが描く日常により補完されそれを繰り返すうちに充足していく。

 

 

先日訪れた企画展では、目の良い画家が一人いた。彼の描く山や森は紫色に光るのだ。確かに黒く見えるだなんてありもしない。見えないからこそ黒いのだ。だからこそ彼は、濃い色をした枝を深い紫で描いたのだろう。目で見えるだろう景色を、なんとなくに常識的な表現に囚われずに描ききった作品をみて、私は目が良いのだろうなと思う。

影を見る。それはドーナッツの穴だけを抜き取る試みと同じ意味を有するだろうか。

結局のところ面白いとは、これまでの理を打ち破る事象である。いつも話すRosenthalQupola(言っていなかったが二脚手に入れた)はそのダブルステムによってワイングラスの理を壊した。くびれを持たず直線的に落ちるボウルにただ二つのステムが並んでつく。そこには、少しも奇異なものは存在しない。しかしながら、二つついたステムは間違いなく特殊であって、可笑しくないのに独特なのである。これこそまさしく私の憧れだ。

 

 

ありきたりの日常を壊した時に、非日常が現れ、そしてそれこそが面白さを有するのである。また、そんな日常や非日常は誰かにとっての非日常や日常であるのかもしれないと、そう思った。

 

冷気

まだ、悲しみを共有できるほど親しくはないから。

あなたとは、楽しいことを一緒にしていたいの。

 

 

梅雨特有の、濁ったような湿度の感じが思考を鈍らせる。自分自身の頭の中にある感情を整理するために、しきりに独り言を呟いては、毎回同じ結論へと至るのだ。仕方がない。

 

今日は、コノスルのスパークリングを買ってきた。本当は、アマゾンで甘口のワインを買ったのだけれど、届くのがどうも月末らしくて、どうしても我慢できずにいくつかの店を転々とした。今週は時間があればスーパーやらドンキ、リカーショップを回っていたのだけれど、コノスルはもうアルパカに駆逐されてしまっていて、どこにも売っていなかった。何とかBRUTのハーフボトルを見つけたのは、普段はあんまりいかない乗換駅のスーパーで、最後の一本だった。幸運かも。

 

そういえば、神社に行く度におみくじを引くのだけれど、毎回決まって待ち人の欄に「来るが遅い」と書かれている気がする。陰鬱なブログを書き始めた時からそんな気がするから、かれこれ3, 4年は続いているはず。さすがに遅すぎでは?

ていうか待ち人ってなんだ?恩師には出会った気もするし、もう会っているのかしら。来るが遅いっていうだけあって、また誰か(他人事感があって、あんまこの言い方好きじゃないけど)人生を変えてくれるような人と出会うのだろうか。

 

 

気を紛らわせるような文章を書いてしまった。

悲しい出来事があった時に悲しんだ素振りをしないのは、感情に乏しいのでも、冷たいわけでもない。ただ、目に見える形で悲しむことだけが、心を表現する方法ではないから、私はいつも黙っている。私は、悲しい素振りを公にできるほど、悲しむことに慣れてはいない。

文章を書き綴ることは、悲しみを人に話すことと同じくらい有効なことらしい。まあそんなことはどうでもいいのだけれど、気休め程度に描いておくのも悪くはないのかしら。

 

 

水を一口飲む。

私が死んだときには、どうか遺骨をダイヤモンドにしてもらいたい。それは別に、ダイヤモンドというものに拘りがあるわけでもなければ、死してなお永遠なんて戯言に惹かれているわけでもないのだけれど、ただ単に、科学を志す人間として、その科学によって(物理的に)姿を変えさせてもらいたいのだ。

スイスかどこかの国で100万くらいでやってくれるらしい。死してその骨を墓にしまわれるくらいなら、ダイヤモンドになった後で、道端にでも捨ててもらった方が、私らしい気がしているのだ。

 

Discription

当たり前の日常を当たり前に語りたい。

私が目指す文章というのは、水のような文章で、いうなればそれはより口語的な文章なのかもしれない。でも、そういうとライトノベルの様な砕けた様子が頭に浮かぶのだけど、私にとってはちょっとカジュアルすぎる。まあ読んだことないんだけどね。

 

好きな作家に太宰治がいるが、彼は水の様な言葉を綴る。彼は、彼自身でもいうように「後に曳かない」文章を書く。それはまるで水の様で、ただただ体に入っては、そのまま流れて出てゆくのだ。三島も好きだが、あの耽美主義的な文章はやや疲れてしまう気もする。ただ本を読みたいときには太宰にする。太宰の本には碌な事が書いていないから、気取らずに読める。学ぶものがないのに面白い。それが太宰文学なのである。

 

 

今日は何をしてたかあまり覚えていない。普通に大学へ通っただけであった。

そういえば、私はいつも文章を書きすぎてしまう。それはこんなくだらないブログではなく、もっと大学の課題だとか計算だとかの話だ。

私は工学系なので、まま計算の課題が出る。そういった際には、もっと簡単に、小学生の用に答えてもいいのだが、私はつい書きすぎてしまうのだ。

まずは文字の定義。これは必要不可欠だ。どの文字を何の象徴として用いるか。これができない奴はそもそも工学をやるべきではない。最初から数字を入れる人間なんか、算数しかできないのかしらと思ってしまう。

とにかく文字を置き、そして必要な式を書く。これは教科書的な(覚えている形)の式を指していて、そこから、=で未知数を示す式へと変形させる。変形が終われば次元の確認だ。しっかりと文字が表す単位を書き、組立つつ未知数と同じ次元が得られるかを確かめるのだ。そして、正直言って単位とオーダー(答えが10の何乗のケタであるか)さえ合っていれば、細かい数字なんでどうでもいい。そんなものは計算機がやってくれるのだから、二、三回電卓をたたけば正しい答えが分かるだろう。

 

今日も大して回答欄は広くないのにもかかわらず、私は一生回答を書いていた。最後の問題が終わった人から教室を後にする中、一番最後は私だった。問題はとうに解けている。ただ、その数値を書くまでに、前段階が長いだけなのだ。

そんなこんなで、先日の試験も最後まで残った結果、計算間違いで点数が低かったりもしたのだが...

 

 

私はあまりニュートンの様な式を好かないのだ。どちらかと言えば、ガリレイの様な説明の方が好みである。

科学というと数値を取り扱うイメージを持たれるかもしれない。確かにそれは間違いない。数値は見やすいし、比較だって簡単だ。しかし、理解は簡単だろうか。私が用いる式を、私は理解しているのだろうか。もしも、微分方程式を単なる"式"によって理解しているん人間がそんな在するのならぜひ会ってみたい。私達は数値を理解することはできない。数値は意味を持たないからである。そんな数値に意味を持たせるのが単位であり、単位の付いた数値を求めるのが式である。式の理解に必要なのは式ではなく、言葉だ。物理学の論文は皆、式の説明が細かく行われており、数式だけ出す論文なんて存在しない。私たちは数式によって世界を単純化しているにすぎず、世界が数式によってあらわされているわけではないからである。

しかし、リスクについてはどうだろうか。私の専門の話だが、リスクは果たして科学足り得るか。数値を扱うその分野は本当に未来を見通すのか。数字の大小が何を表すというのだろうか。単なる証拠の一つに過ぎない数字が、果たしてリスク評価にとってどれだけの意味を有するのだろうか。

われわれ人間は、数値に弱い。それは数値を簡単に認識できても、簡単には理解できないからである。数値に特化していた理系の人間は話が別かもしれないが、少なくともそんな奴らは一般人ではない。

であるからして、「リスク評価は数値を重視しすぎるべきではない」のだろうか。確かに重要な証左になり得る数値は、客観を装うには尤もかもしれない。だが、それはすべてでもなければ正しいことを表すわけではない。天気予報による降水確率0%は、「これまで同じような大気配置になった時には雨が降らなかった」ことを意味する。それは、だから今日も雨は降らない、と語るわけではない。これまでは雨が降らなかったから、雨が降ることはほとんど考えられないだろう、とそれだけである。統計による科学は、過去を語るのみで未来を語るわけではないのだ。リスク評価なんて往々にして統計による分野であり、科学を科学たらしめる要件を満たしているのか疑問である。だって、統計の否定は過去事象のデータ分析の否定であって理論の否定には成り得ないからである。つまり、反証可能性を有しているのかも疑問である。統計は科学ではなく、科学を行うための道具に過ぎないはずなのだ。

 

ああ、まとまらない。日常を1000文字書いて辞めるつもりだったが、気が付けばくだらない話をしていた。さすがに寝よう。今日ももう遅い(22時22分現在)

 

如是我考

如是我聞、それは仏教の経典に登場する言葉であり、「是の如く我は(仏より)聞いた」を意味する。

今回のタイトルである如是我考とは、私が執筆時に気に入って使っているタイトルの一つだ。詰まるところ雑考と同じ意であるが、少しの衒学趣味がある方がよろしく思われる。今日は別に書きたいことがあったわけではない。ただ何となく持った雑念を供養する文章を綴りたいだけだ。


1. HKM

クックパッド(死語)(ではない)を使う人間なら見たことがあるだろう。主に製菓の文脈でホットケーキミックスの略称として用いられる。が、どうしても納得いかない。誰がどう考えてもHCMだろ。なんでHKMなんだよKEKかよ。Hot Cake Mixじゃないんだよ。ちなみにもっとまともに考えるならHotcake MixであるためHMなのだが、これはHand Mixiser と干渉するのでCが入ることの違和感は少ない。

KEK(Kou Enerugi Kasokuki 研究機構)の場合は加速器(Accelerator)が語彙としてやや専門的であるため、認めてやってもいいだろう。というかそのナンセンスさがむしろ目を引くので楽しいくらいだ。しかし、HKMはそうではない。HotもCakeもMixも全て中学どころか小学英語(なお筆者は小学校の英語はほとんどなかった世代であるので詳細は知らない)の単語だ。それなのに、なぜ...。

 

 

 

2. A Blue Shirt

私の服飾の趣味は、ドレスアイテムが軸にある。主にシャツやジャケット、トラウザーズ、スーツ、革靴といったテーラリングの類だ。

かつて、原理主義者だった私は白シャツにばかり気を取られおり、今でも自室のクローゼットには20枚以上の白シャツが掛かっている。それらワードローブの中にただのブルーシャツが加わったのはごく最近の出来事であった。

ごく普通のポプリン地を使い、二の字掛けで艶が控えめの白蝶貝ボタンが付けられた普通のボタンダウン。旧タグ時代のMargaret Howellのものだ。

特筆すべきものがないほどただのシャツで、唯一が二の字掛けであることくらい。背割も袖付のガゼットも至って普通である。

思えば、カラーシャツを見てこなかった。避けていたというよりも、そもそも眼中になかったのだ。シャツといえばホワイトシャツ以外存在せず、存在そのものを認知していなかった。

むしろ今では、ホワイトシャツより気に入ってしまったから困る。以前から柄(ストライプ)まで入ったブルーシャツを一枚のみ"奇抜"な服として持っていたが、気が付けばそれももう一枚増えていた。好みとは変わりゆくもので、昔は必ずと打っていいほど二つまで開けていたボタンは、今は間違いなく一つだけであるし、あれほど嫌って必ず取っていた胸ポケットは、最近は無視しつつもある。

爽やかな格好。幸か不幸か、私は自分の好みの服装と人受けのいい格好というものが一致しているから助かる。ただ、以前のホワイトシャツよりもブルーシャツの方が特に好印象な気もしていて、さらなる合致に期待を高めるばかりだ。まあ、服装が良くても本体のヒト受けが悪いので仕方ないのだが...


3. 鈍行

2時間弱ほど同じ電車に乗り続けた。普段は東京の大学に通うため、一つの路線で乗る時間はせいぜい30分程度、すべて合わせて1時間を超えるか超えないか程度である。

鈍行、この頃はあまり本を読まなかったから、スマホをいじることに終始していた。

目的は旅行であり、学部時代の旧友へ会いに行った。特段、目的などはなく、ただ単に私が住む地域と、彼が住む地域の中間地点を目的地としたに過ぎなかった。

訪れた地は秘匿しておこう。ただ、その

 

編集中

 

 

 

五月病に寄せて

ニュータウン 誰かが きっと

今夜シチューを 食べているんだろう ワオ!

 

最近はまた、キリンジのペーパードライヴァーズミュージックを聞き返している。

KIRINJI。別段好きな歌手というわけでもなく、彼(ら)との出会いはやはり渋谷系の系譜である。最後の渋谷系、あるいはポスト渋谷系と言われるCymbalsが好きで、そのヴォーカルである土岐麻子、彼女への楽曲提供をもとにきっかけとして、KIRINJIを聞くようになった。『ロマンチック』、土岐麻子の曲の中でやはり特段好きというわけではない。しかしながら、小洒落たピアノを軸になめらかに流れていくこの曲の雰囲気、とくにBメロなんかは随分とピアノが目立つのに、歌声の邪魔をしない。バランス感が非常によく、文句のない楽曲であると思う。

まあそんな曲がおそらく初めて聞くKIRINJIの曲で、その後は月次ながら『エイリアンズ』。Awesome City Culbは、昔で言うやっぱり渋谷系の雰囲気を持っていて好き。彼らがまだ5人だったころのミニアルバム、TORSOの中でエイリアンズをカバーしていたのだ。このアルバムの中ではエイリアンズの一つ前、『燃える星』が好き。Two of us進行(丸サ進行)と呼ばれるコード進行の曲は、ありきたりながらやはりおしゃれ。ちょっとした切なさを思わせつつ、男女のツインヴォーカルならではの甘い雰囲気で進み、二人の声があることによって男女両者に感情に思いをはせざるをえないというか、とにかくいい。

そんな彼らのアルバムを聞きまくるうちにエイリアンズが気になり、元曲を探り...ということでKIRINJIへと至ったのだ。ようやく。

 

ペーパードライヴァーズミュージックを選んだ理由はあまり重大ではなく、弟がまだいた頃の中のアルバムのうちで、ジャケット基準で選んだものがたまたまそれであっただけ。お気に入りは『野良の虹』と『雨を見くびるな』、『ニュータウン』、『五月病』である。

まああんまり長く書いたって仕方がない。

 

冒頭の引用、あまりにもあんまりな歌詞に私は心を打たれたのである。キリンジ五月病というタイトルの楽曲で、平易な文章で淡々と綴られる、何の変哲もない日常の風景の切り取りとった歌だ。

私はこういったありきたりな日常の言葉で、ありきたりな日常を語る文章を描きたいのだ。そしてそこに間違いなく残る私らしさを置くことができれば、まさしく個性の表出であり、文章を書くものとしての確固たる矜持となるのだと信じている。

よく云う、「私がこんな文章を書きたかった」という感情になったモノはいくつかある。その一つが今回の五月病であり、更新が途絶えても時折読み返しているブログだってその一つである。

 

ニュータウン 誰かが きっと

今夜シチューを 食べているんだろう ワオ!

 

ああ、私にはきっと、こんな素敵な文章を書けるようになる日は来ないだろう。当たり前の日常を当たり前のまま感動したい。私は、誰かにとっての日常を非日常のように思われて感動するのではなく、自らの目で、自らの日常に感動を見出せるようになりたいと思っているのである。

 

 

本記事の引用は、キリンジが1998年に発表した『ペーパードライヴァーズミュージック』より、「五月病」からである。

キリンジ 五月病 歌詞 - 歌ネット

水を飲む。

 

本日は晴天であり、熱特有のけだるさを伴った体は強い日差しとは裏腹にいやに重い。快い朝に限って、空では雨雲が笑うのであるが、厭わしい朝にばかり、外では太陽が自棄に燃えるのだ。

先日の台風による寒暖差の所為か、私の体はあまり良い調子ではなく、昨日なんかは一日中鼻を垂らして過ごしていた。明らかな体調不良とは反抗的に、数値的な部分は平時を装う。気乗りしないながらも就業先へと向かい、五時間も働いたうえで、午後の授業を受ける為に大学へと向かったのだ。

 

大学での話はどうでもいい。強いて言うならば研究室から締め出されていたせいで、外の芝生にて授業を受ける羽目になったことだろうか。口頭発表が存在する授業だったから出ないわけにもいかないし、駅で携帯の充電器を借りて何とかしのいだのである。

その後は旧友との交流のために東京へと向かい、九時を回る前にはその駅を後にした。酒を飲むたびに、後悔しながら自宅へと向かうことになり、さらには体調の不良も相まって昨夜の帰路の電車では眠るにも眠られないような不快な一時間を過ごすことになった。余談ではあるが、私は起きようと思えば起きれる人間であるので、飲み会後の電車であっても、目覚ましを一つつけさえすればパッと覚醒しその車を後にできる。

 

 

本日の予定は午後からで、久方ぶりに九時過ぎまで床を出なかった。予定がない日はいつも寝坊をしようと試みるのであるが、毎回決まって七時半くらいに目が覚めてしまうのであった。そんな中、今日に限って長く眠ることができたのは、やはり体調不良による体力の消耗を思わされる。

体調を崩した時、私はひたすらに水を飲む。普通朝起きたら水飲み一杯の水を口にして、その後は紅茶を淹れるのであるが、今日は続いて五、六杯は飲んだだろうか。時間が経過に伴い、私の体調は徐々に優れてくる傾向があり、予定がある午後なんかはもはや通常通りどころかこれまでの落差の分寧ろ快い状態にまで感じられ、明るい気分で駅前を歩いたのだった。

 

今日は早く休もう。そう心に決めていたはずだったが、気が付けばこんな時間になってしまった。明日にある試験のために少し復習をして寝ようと思ったのだが、なんとなく文章も書きたくなってしまった。実はこれは二稿目であり、その前に一千字ほど書いた原稿は完成しないまま下書きへ保存してしまった。

いつも言う通り、最近は一千字以上を最低の基準として設けており、本稿ももうじき超えるといったところだ。

 

 

文章を書きたいとき、楽しい話をしたいのであるが、最近は研究の所為か、どうしてもまじめなことばかりを語ってしまう。別に本稿が明るい話だなんてわけでは全くないのだけれど、まじめよりかは幾許かましか。

文章を書きたいという気持ちは、世間に対して私の思考を残しておきたいという心持であり、それは匿名化した中で生きていたいという心と葛藤しながら存在する、一種の欲求である。

私の目指す文章とは、平易で、誰にでも書けるような当たり前の文章である。太宰のように、誰でもかけるような体で誰にも書けないような話をしたいのだ。

平易な文章を目指しながらも今日は二種類の文字のみで語ることを制限とした。さすがに違和感があるくらいに言いかえの言葉をがしつつの試みとなったが、時折行う文には良いのかもしれない。

 

全く持って抑揚のない稿となってしまった気もするのであるが、普段健康的な生活を行う人間にとっては日付を跨ぐというものはあまりに重いのである。もう十五分も回る頃であるが、今日は終わりにさせていただきたい。