ココボロだとか好きだとか

大学院生による独り言と備忘録

熱からの回復と一考

まいってしまう。

 

二年前のコロナ以来の38℃を超える発熱。インフルエンザなのかはしらんが4日間も発熱が続き、未だに空咳に襲われている。昨今は発熱に対して仰々しい対応を行わなけばならず、ふと病院へ掛かろうにも大きな壁として私の足を遠のかせる一つの要因となった。

結果としては、(普段は)全くの健康体で生きる私がわざわざ病院のリソースを喰わずに済んだのだから、構想者の想定通りであっただろう。

ものぐさな私は、わざわざ体調の悪い中電話をかけまくって、重い体を動かして病院へ伺うよりも、ただひたすら自宅で療養することによって回復をまった次第である。

 

私は一端の科学者であるから、どちらかと言えば病院というものを信仰しているし、薬なんかも、私なんぞよりもはるかに苦心をしてその分野を学習してきたであろう医師・薬剤師の方に敬意をもって、丸まんまその内容を信じ切って服用している。

だからこそ、病院に掛かることについては全く抵抗がないのであるが、どうにも、自分自身が風邪をひくとそうでもない。心配性な家族はみな、「病院にいけ」というのであるが、特段持病もなく、体力だって有り余るような二十代の若者である私は、わざわざ病院へ伺って、他人と共にリソースが供給されることを待つことよりも、ただひたすら自分の体というものを信じ切って経時を過ぎることの方が容易であるのだ。

 

きっとこういった態度が極端に表れてしまった場合に慎重派(婉曲表現)に至るのだろう。私はもともと、科学主義の様な態度をあまり快く思っておらず、一端の科学者であるそれよりも以前に感情に重きを置くような人間でありたいと思っていた。

誰の言葉かは知らないが、精神患者にとってその妄想とは現実であるのだという。至極その通りではないだろうか。そして精神患者にとっての妄想が、彼(女)にとってのみ現実であることと同様、私の中だけでは、私の認識こそが現実なのである。科学の認識を持つものの中では、科学が現実であるし、非科学の認識を持つものの中では非科学こそが現実である。

私は、このような考えこそ現実問題への対処を行う根幹に資すると考えている。受け入れることからしか物は始まらないのだ。以前も言ったかもしれないが、大抵のものに関して、その賛成派も反対派も根本の志は同じであるのではないか。誰もかれも、良い現状の維持か、よりより環境の整備を志している。しかしその手法が異なるからこそ対立が起こるのではないか。つまり、意見の対立が起こったとしても、彼(女)が考えの根本に置く善良性のみは、受け入れてやるべきだと考えているのだ。

 

尤も、現実問題には根本思想が善良であれど、その先の言動が客観的に悪質な場合もあるのだから仕方がないのだけれど。