ココボロだとか好きだとか

大学院生による独り言と備忘録

科学主義に関する雑感

どうしても文章を書きたくなることがある。大抵は書きたいことがあるのではなく、書きたいだけなので、話題選びにいつも悩んでしまうのだ。

だから最近は、ぱっと思いついたことを文章にするようにしていて、くだらない雑感記事が増えているのだろう。

 

進学して一月は経っただろう。授業は思いのほか忙しく、大学(学部)一年生と同じかそれ以上に大学へ通っている。私は元々人文科学に寄った研究をしており、おおよその理系諸君のように研究室に足繁く通うことはなかった。今でこそ、独りの研究室へは平日毎日通っているが、これは全く研究のためではなく、単に昼食を取ったり授業の支度を整えたりといった目的のためである。

流石に機会損失をしていないか。せっかく場所があるのだから有効活用をしようと思い、近頃は研究室内で済ます課題を自らに課している。といっても簡単な内容で、

1. 当日の日記(和文)をA5サイズに記す

2. 研究ノートへ進捗を1頁以上残す

3. 授業課題の一掃(通常は課題が出されてから二日以内)

たったそれだけ。特段難しいことはしない。なぜならどうせやらなくなるから。難しい計画を立てたって完遂できなくて投げるくらいなら、簡単な予定を毎日こなす方がずっと良い。それは自らの技能上昇のためにも、あるいは精神のためにも。

 

今年は3本論文を書きたい。もちろん大層なものではなく、学会の口頭発表に出られる程度のもので良い。そんな思いでアイディア出しを行った内容の先行文献調査をして得ると、もう10年ほど前にほとんどやり尽くされていた。仕方ない。発見した論文を下敷きに、何かしら独自性を加えてとも思ったのだけれどあまりいい方向性が見当たらない。

気分転換に別の学会用のネタを考えているのだけれど、いかんせん反科学主義に陥りそうで良くない。

昨今の記事でも主張したが、私は一端の科学者であるから科学を信じている。しかしそれ以上に人間であるから、科学的合理性よりも感情論を優先にする。だって、もしも合理性のみが意思決定に働くのであれば共産主義は失敗していない。一方、こんな欲望を下敷きにした資本主義が跋扈するとは、まさに感情や欲求というものが精神よりも先行しているという何よりもの証だろう。

だからこそ、我々が行うべきは、科学的に正しい方法を議論で決定するというものではなく、科学的に正しいと思われる方向に感情論を持っていくことだ。

実際科学的に正しいから認められたなんてものは純粋科学、せいぜい理学の領域までであって、その範囲を超えたら合理性なんてものは意思決定の要因の一つに過ぎないのではなかろうか。

倫理観と人は言うが、それは感情が合理を押さえつける足枷である。

私はこれを否定的に語っているのではない。西洋伝統の理性主義を皮肉に思っているだけである。