ココボロだとか好きだとか

大学院生による独り言と備忘録

日常とこれから

昨日はブログを書こうと思った。

電車に揺られて帰宅する際には活字を読みたい。朝は最近ゆったりだから本を片手に運ばれるのであるが、帰りはそうはいかない。東京の17時に余裕はないのだ。

 


そういえば大学院へ進学した。初めて現在通う大学に足を踏み入れた時、此処が新たな母校になるのだと思った。また新たな日常が始まると、少しワクワクしながら手続きを済ませたことを覚えている。入学から一月経った今、だんだんと特殊性が薄れている気がするのだが…

 


研究室は私独りで、誰もいない(社会人学生が多いので学生室には誰も来ない)。毎朝研究室棟の給湯室でブリタの水筒と電気ケトルに水を汲み、水を飲みつつ湯を沸かして(インスタント)コーヒーを淹れる。ブリタの水筒にはフィルタがついているが、心持ちの問題である。水道水で構わない。中身ではなく気取ることに意味があるのだ。

以前いた研究室は、室内に水道があるものの給湯器がなかったが、今は逆。給湯器でお湯をケトルに汲むことで、沸くのが早くて嬉しい。まあそんな熱くても猫舌で飲めないのであるが…

 


そんなこんながこのひと月の日常で、徐々に体に染み込んでくるような日常生活に、まま殺されそうになる。

私はお洋服が好きで、時間に追われてつまらない格好選んでしまった日には一日憂鬱である。だから時折非日常を手に入れようと躍起になって、独特な服装を選定する。だから私はモードを愛している。

 


昨日は、駐輪場に停めた自転車の位置を覚えていた。正確には停めたことを覚えていたのだ。地元の駐輪場は二階建てで、定期利用は数列あるところから選んで停める。いつもそもそも一階か二階かどこの列かも忘れてしまって、帰宅の帰路にはわからないでいる。しかし昨日は、一番端の列だと停められなかった時戻らなきゃいけないからと考えて端から二列目に停めた。この"考え"を覚えていたのだ。

事実は覚えていられなくても、思考は忘れないのだと常々実感する。

 


先日異性の友人と久しぶりに会った時、やはり恋愛感情というものは無くなったのだと強く思った。以前はあったはずのそれが、いつかのプラネタリウム越しで完全にどうでも良くなった。私は、異性間の友情をそこまで信じていないが、友情から恋愛感情を通り越した時に、改めて友人へと遷移しもう戻らないのではないかと今は考えている。思えば、昔からそうだった気もする。

私にとって恋愛とは一種の独占契約であり、不確実な将来を全てまとめて約束をするだなんてことが、時折嫌になる。そんな小さな石で未来まで売り渡す君が悲しい[2]

 

 

 

飲酒をした帰り道は、大抵最寄り(本当は2番目に近い駅)から30分歩いて帰るのであるが、いつも後悔している。それは決してお酒を飲んだことにではなくて、もっとこれまでの選択について、何もやってこなかった自分に対してである。

何かをやることは、別に何かをやらないことの免罪符にはならない。

時間がないという言葉が私は嫌いで、やってみたいことは大抵やるのであるが、それがいくつか溜まると、新たなものを取り入れられなくなる。たとえそれが、今手につけているものよりも優れていても、どうしても避ける選択をとってしまう。そんな嫌いを治していきたい。

 

 

 

こんなことを通学電車に揺られながらポチポチと打ち込んでいると、目の前の紳士が新潮社の『マイブック』を広げて、しきりにペンを動かしていた。

同じ目的を持った同志のように思いつつ、秘匿性についてが頭をよぎる。

私はこんな駄文であったとしても世界へと関わりを持つためにブログを書き続けたい。

そんなこんなで今日は、思うままに、モンタージュ的に話題を打ち込み続けた、以上。