ココボロだとか好きだとか

大学院生による独り言と備忘録

今日一日

今日は本を買いに行った。

自棄に晴れた月曜日、朝の内から(予定外の)バイトを済ませて適当に昼食を採る。ご飯を炊くのは時間がかかるから、こんな日は大抵パスタを食べるのだ。きっとレンジで簡単みたいなヤツを使えばいいのだろうけれど、買わずじまいで毎回鍋を使って湯を沸かし、適当に塩とコンソメを入れて麺を茹でている。見ている鍋は煮えない。

食後はコーヒーか紅茶を淹れる。そして今日はコーヒーだった。この決断は結構難しい。そもそも紅茶はチャイも含めると5種類ストックがあるし、コーヒーは豆が2種類、淹れ方がペーパーとフレンチプレス、カフェフィンの三種類、インスタントが2種類あるから何でも選べる。今日はペーパーであった。だってめんどくさいんだもの。ペーパーは後処理が楽で助かる。フレンチプレスもベトナムコーヒーも、消耗品がない分手入れが面倒であるのだ。ああ、ものぐさな私は結局低きに流れていく...

 

食後のコーヒーの後、本来ならばするべき卒論を放り出して本を買いに出かけた。

目当ての本を買うために、近場の大型書店を二つほど回った。けれど、店内検索機があるくらい大きなお店だって言うのにどちらにも置いてなかったのだ。

私はあまり本を買わない。だって、もう本棚には入りきらないほどの本があるし、少し前にちくまの日本文学全集なんかを買ったせいで、おそらくこの先数年は読む本には困らないような状況であるからだ。しかし結局、トムズボックスという個人書店が発刊している宇野亞喜良の『EROS ET SÉRIEUS』を手に取った。本当は買う予定がないものを買うべきではないのだが、仕方ない。

 

宇野亞喜良、好きな画家の一人だ。画家というよりもイラストレーターという方が適切であろうか。彼は少女の絵を描く。そしていつも少女はどこか間違っていて、少女以外はいつも正しい。

最近彼の展示会が銀座で開かれており、私も伺った。会場一階には購入もできる作品が、地下一階には昔のポスター作品が展示されており、二階ではビデオ作品が上映されていた。

作品の展示は概ねどれも面白かったが、2階のビデオは気に入らなかった。25分の映像らしいが、全てを見ずに会場を後にした。つまらないものには詰まらないと言わねばならないのだ。

宇野の絵を見ると、彼は本当に絵が上手なのだろうといつも感じる。けれど、彼の少女はいつもおかしい。揺れながら伸びる線、細い手足と首に短い胴、大きな頭と主張の激しい目。それでいて、彼の描く少女はしなやかでない。どこか硬く、まぎれもなく紙の上に固定されているのだ。当たり前なのかもしれない。その当たり前を脱ぎ去るために多くの画家が躍起になっているというのに、彼はどこ吹く風、ただただ張り付いた様な彼の絵を描き続けている。

閑話休題

 

『EROS ET SÉRIEUS』では「マトモとジョーダンとでもいうような2種類の挿絵」(p62より引用)がひたすら並べられている。

"ジョーダン"の少女の間には"マトモ"な絵が幾つか挿入される。そのどれもが感嘆するほどに上手い。私にはどうして、あんなに上手なイラストを描く人間が、あんなにおかしな少女を描くのかが分からないのだ。けれども、もしも宇野の作品を手に入れようと思うのであれば、間違いなく"ジョーダン"の少女を買うだろう。私には楽しい絵なんかよりも陰鬱な絵の方がなじみ深い。綺麗な絵よりも不恰好なイラストと親しい生活をしている。

気持ち悪くなきゃ気持ちよくなれない。とは歌手の大森靖子の言葉だったはずだが、これは至言だと考えており、絵を見る時・曲を聴く時には必ず思い出す。そんな私であるから、至極つまらない恰好をしてしまった日なんかは悲しくなる。墨色をした無地のスーツに、輝く無地のホワイトシャツ、深く澄んだ藍色の無地のタイを絞めるときは、むしろその神経質さが面白くなり、プレーントゥのシューズに全くのデザインのない四角いだけのブリーフケースを合わせる様な楽しさがある。しかしながら、無難な色のニットにカジュアルシャツ、デニムなんて合わせてしまった日にはつまらなすぎて窒息してしまいそうになるのだ。

閑話休題

 

何の話か忘れた。宇野亜喜良か。

宇野の気持ち悪さはその気持ちよさを強める。人間なんて相対的な生き物であるから、やはり前言は正しい様に思われる。

そんなこんなで今日(三日前)の記録を今日(2023/02/02)に投稿する。