ココボロだとか好きだとか

大学院生による独り言と備忘録

茨城にて

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おとぎ話のような光景だった

昨年茨城を訪れたときの写真だ。

 

それなりに忙しくて楽しい日々だった気がする。

8月だったかな、茨城に私用があり水戸を訪ねた。しかしその前日には都内で1dayのインターンシップに参加しており、本来であれば行く予定だった懇親会を断り夕方から水戸に向かった。

金なんてない大学生だから東京発の安い高速バスで3時間くらい、夜の9時に到着した気がする。

 

宿は一泊3,000円。いくら水戸でもめちゃくちゃ安かった。普通のホテルだったけど。まあ部屋は狭い。って言ってもただ寝るだけだから関係なかった。

 

 

 

2日目

きれいに晴れた朝、駅近くの公園を通り目的地に向かう。軽く汗ばむくらいには暑かったけれど、背中を押す風に、快い色の若葉が揺れて輝き、「夏が来た」そんな感じがなんだか嬉しかった。張り付くシャツの不快感が、今までにないくらい生きていることを思いださせてくれるようで新鮮だった。

 

 

通りかかった大きな池のほとりには白鳥がいた。その後ろには黒鳥。なんともおとぎ話みたいな光景で思わず写真を撮る私。しばらくすると彼らは老人の連れた柴犬に追い払われ離れてしまった。

 

ただの朝の散歩が忘れられない日になるとは。きれいな日だった。

目的地ではもう言葉を交わせないほど、気まずくなってしまった人と憧れていた人、それ以外にも友人や多くの知り合いがいて、会えたのが嬉しいような怖いような心持ちで、何度となく汗を拭った。

 

あこがれの人は見たことないくらい髪が短くなっていて衝撃を受けた。会えてよかったと思うと同時に逃げ出したくなった。我ながらくだらないことに感傷的に成るのだなと思いながらも、私の知らない誰かのために綺麗になった憧れの人など見ていられなかった。

 

挨拶も半場すぐに外れ、運良く本来とは別の仕事を任されてその日中もう二度と合わなくて済むのだと分かったときは安堵を感じた。弱いな。ああ年に一度出会ってしまったときのために何でもやってきたつもりでいたのに。

 

ただただ仕事をこなし、早足に友人とその場を離れた。かなわない夢を追いかけることが幸せだと言うのであれば僕はいつでも幸いだったはずだ。事実そうではないから私はいつも不幸せで、報われない日々を過ごしていた。

夢を追いかけ続けるのは、夢が叶わないで居続けるからである。

夢を追うことが幸いだと思うのは、その夢を捨てた時点で報われない心すらも捨ててしまうからである。

努力は嘘をつかない。しかし喋ってくれるかもわからない。

ぐるぐると言葉があたまを周り幾つもの否定の言葉を繰り返す。

嫌だ。

何もかも、全て嫌いだった。だから何でもやった。夢を追った。変わりたかったから。

 

私にとっておとぎ話のようなすばらしい日はあなたにとってはただの365日の中の1日で、他愛もない日にただの旧友に出会っただけなのでしょう。

 

 

ああ私には一生理解ができない。始まりが受動だったのに、終わりは能動になりうるのか。

そんな恋だなんて私に到底できない。殉教せよとでも言うのだろうか。

まあ良い。胸を痛めつける分には血も流れず傷もつかない。私は誰にも気づかれることなくあたかもリストカットのように自らの生を知り、その痛みで持って自分が何たるかが判るのである。

 

また明日。胸が痛むのならば昨日の私は正しかったのであろう。