ココボロだとか好きだとか

大学院生による独り言と備忘録

非日常と日常と

どこかへ足を伸ばすたびに、この先にどのような面白みがあるのかをつい考えてしまう。もちろん、何か特別な経験を得るなどと云うことが、至って普通の日常にいくらでも紛れているわけではないとわかった上で。

それでも旅行の日程中はどうしても思ってしまうのだ。私にとっての非日常であるから、そこにはナニカトクベツがあると。

 

これは、人間のきらいだろうか。

 

人は言う、海外旅行に行って世界が変わったと。しかし、真っ当だろうか?確かに我々にとっての海外とは、我々にとっての非日常である。ところが、その海外とは現地人にとっての国内であり、非日常とは彼()らにとっての日常である。しかして、非日常とはまさに全くの日常なのである。

 

ある絵を見た時、私はいたく感動した。それは清川泰次の「イタリーの空」である。彼の描く無対照芸術とそれに応ずる対照芸術の境目についてを思った。これはただの美術鑑賞であろうか。海外旅行と一緒ではないか。

私は確かにその絵から新たな視点を得た。しかしそれは、現地の清川が長年にわたり考え、生活をしてきた日常に過ぎず、旅行で訪れた私が面白がって価値観が変わったと叫ぶだけである。

なぜ私は、私の日常の中で同じ現象に疑問を持ち、それを深く考えることができなかったのだろうか。そこに気がつくことが才能や努力の為す術なのであろうか。

 

初めて訪れたスコットランドは、あまりにも私の故郷とかけ離れた姿をしており、私はかつての西洋画家を思った。ターナーである。彼はスコットランドの人間ではないがブリテンの人であった。

以前彼の絵を見た時、ただの表現に過ぎないとばかり思っていた。しかし違ったのだ。間違いなくその絵はターナーがその目で見たものであって、おそらく、彼はただ描いたのである。日常を描き、多くの人が日常をそこに見たのだ。

ターナーなら可愛いもので、ピカソ(いつも言うが、画家の名前をと言われた時に、ピカソやモネなんかを引くのはなんとなく憚られる)なんて云うものはその非日常を理解するための土壌を持たねばならない。

気がつくのはあくまで私であって、作品の内側にある美理(美術品に関するプログラミングコードのようなイメージ、都合上そう呼ぶだけで、読み方は考えてもいない)を思うのではなく、自分自身に内在する美術史、美学理論に照らし合わせてその一歩前進を探るのだ。

であるからして、我々にとっての非日常とは誰かが描く日常により補完されそれを繰り返すうちに充足していく。

 

 

先日訪れた企画展では、目の良い画家が一人いた。彼の描く山や森は紫色に光るのだ。確かに黒く見えるだなんてありもしない。見えないからこそ黒いのだ。だからこそ彼は、濃い色をした枝を深い紫で描いたのだろう。目で見えるだろう景色を、なんとなくに常識的な表現に囚われずに描ききった作品をみて、私は目が良いのだろうなと思う。

影を見る。それはドーナッツの穴だけを抜き取る試みと同じ意味を有するだろうか。

結局のところ面白いとは、これまでの理を打ち破る事象である。いつも話すRosenthalQupola(言っていなかったが二脚手に入れた)はそのダブルステムによってワイングラスの理を壊した。くびれを持たず直線的に落ちるボウルにただ二つのステムが並んでつく。そこには、少しも奇異なものは存在しない。しかしながら、二つついたステムは間違いなく特殊であって、可笑しくないのに独特なのである。これこそまさしく私の憧れだ。

 

 

ありきたりの日常を壊した時に、非日常が現れ、そしてそれこそが面白さを有するのである。また、そんな日常や非日常は誰かにとっての非日常や日常であるのかもしれないと、そう思った。