ココボロだとか好きだとか

大学院生による独り言と備忘録

ジャネーの法則の深堀1

Nous avons discuté autrefois les faits que je viens de vous signaler aujourd'hui ; ils vous montrent bien que l'explication physiologique est impossible. Les personnages dont je vous parle ont conservé une circulation, une respiration normales, ont le même nombre de pulsations, et apprécient la longueur du temps d'une manière très différente. Cela ne dépend pas de phénomènes physiologiques.

On a essayé bien des systèmes polir expliquer la mesure du temps. Il y a déjà bien dès années (1876 ou 1878) a paru un article du philosophe Paul Janet, qui a eu sa petite heure de célébrité. Son explication était très ingénieuse et amusante. Il prétend que le présent, le temps que nous vivons, est toujours apprécié par rapport au reste de notre vie. Quand nous sommes un enfant de dix ans, une année de notre vie est le dixième de la vie. Le dixième, c'est une partie importante de la vie ; par conséquent, pour l'enfant de dix ans, une année, c'est très long. Quand nous avons vécu soixante ans et plus, une année n'est plus que la soixantième partie de notre vie ; c'est tout petit, beaucoup plus petit que le dixième. C'est pour cela que les gens qui vieillissent trouvent que l'année est courte. Cette explication ne tient pas devant les faits pathologiques où les choses varient indéfiniment.

D'après l'ouvrage de Guyau et le livre de James (p. 625, tome 1) l'appréciation de la longueur du temps dépend uniquement du nombre d'actions que nous faisons. Si nous faisons beaucoup d'actions, le temps paraît long ; si nous en faisons peu, le temps paraît court.

(Pierre Janet, L’évolution de la mémoire et de la notion du temps, p.53, https://psychaanalyse.com/pdf/janet_memoire_temps.pdf)

 

これはフランスの哲学者、ピエール・ジャネーの著作、『記憶と時間概念の進化』からの引用である。ウェブリンクはフランスの精神分析研究者系のウェブサイト、psichaanalisysから引っ張ってきている。ちょっとこのサイトの詳細はつかみ切れていないので、詳しい人に教えていただきたい。

 

ジャネーの法則、あるいはジャネの法則とされるものが巷でがよく話題に上がる。これは、時間知覚(ここでは時間の長さの近く)というものは、年齢の逆乗に応じるという"提言"である。

私はこの話が死ぬほど嫌いだ。他にもメラビアンの法則、ヒヤリ・ハットの法則とか、これらはあまりに単純化して巷に流れてしまったがゆえに、誤った用いられ方をしている気がするのだ。

 

ジャネーの法則への批判は多少調べようと思うとすぐ出てくる。Wikipediaにも注釈で、

なお、ポールの説は時間観念に関する諸説のひとつとして批判的に紹介されている。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87)

と表記されている。しかし、未だにジャネーの法則を擦り続ける人がいるのはなぜだろうか。私はここに、"民衆科学"の匂いを感じているのだ。なお、この"民衆科学"というものは私が勝手に言っているもので、なんら専門的な用語ではない。専門家の手から離れ、巷に流布するようになった一見科学的に見られるものを称している。

 

民衆科学と言えば、『水からの伝言』なんてものは、理系の皆が嫌いな話だろう。

学習院によるこの本に対する反論の中にも

「道徳の授業につかうなら、事実でなくても、かまわないのでは?」という見出しが存在する。

その中では、

もちろん、イソップ童話など、事実ではない「お話」を道徳の授業で使うのはふつうのことです。 しかし、そういうときには、それが「お話」だということは、先生にも生徒にも、よくわかっています。
ところが、「水からの伝言」のばあいには、実験でみつかった事実として紹介されているのです。

(https://www.gakushuin.ac.jp/~881791/fs/)

という反論がされており、私はこの内容に同意する。

では、ジャネーの法則についてはどうだろうか。

最初の引用をもう一度見てみよう。最初の段落では、「生理現象がまったく一致してる人達がいたとしても、時間感覚まで一致しているとは限らない」との旨が書かれている。

続く二落目が本題だ。「1876年か1878年に発刊されたポール・ジャネの論文で時間感覚に対する面白い説明が紹介された。それは、「10歳の子にとってはその一年間は人生の1/10に値し、60歳の人には1/60に値する。これが、年齢を重ねる一年が短くなる理由である」と。しかし、これは病理学的事実に反している。」

ということで早速、ジャネーの法則とやらは批判されているのだ。

そして三段落目、「ガヨーとジェイムズの著作によると時間感覚の長さは、我々が実行する行動の数にのみ依存するのだという。だから、たくさん行動すると時間が短く感じるのだ」と書かれる。ちなみにこの後、このガヨーとジェイムズの内容についても、事実に反していると批判が行われる。

 

つまるところ、『記憶と時間概念の進化』とのタイトルの通り、時間概念はこれまでどのように考えられてきたかの一例として、ポール・ジャネーの考えが紹介されているだけであり、その真偽や実証実験の有無は語られていない。むしろ、病理学的事実に反する考えだとして批判しているのだ。

 

ポールが時間感覚に対して大胆な仮説を立てたことは良かった。しかし、その実証実験は(おそらく)行われておらず、また後世(甥のピエール)により「病理学的事実に反する」という、ある程度科学的見解を含んだ内容で否定されている。このことから、ジャネーの法則なんてものは「面白い事実」のように語られるべきではない。仮説に過ぎないものを「法則」なんて名前をつけて語るから、馬鹿げた記事で事実のように紹介されるのだ。

理化学系の私としては、法則とはもっと根源的な、実験的事実の積み上げなどによって語られるべきだと考えている。ジャネーの法則が法則でないことは上述の内容から明らかであるが、私としてはメラビアンの法則とかヒヤリハットの法則も、本体は法則でなく規則やルール程度の文言に変更するべきだとも思っている。

皆さんはこれらをどう思うか。

 

 

 

ここまできたらあとはPaul Janetの原著に当たりたい。ピエールは「ポール・ジャネによる面白い"考え"」と紹介していたが、ポールの原文にあたれば何かしらの実験結果である可能性もある(ほぼなさそうだけど)。そう思ったがここから先にはやや困難が多い。私は別にフランス語ができるわけでもないし、英語も得意ってほどではない。試しにフランス語で検索をしてみたが元の(Paul Janet,1876) もしくは(Paul Janet,1878)はそれっぽいタイトルがあまりヒットしない。

wikisourceにあったPaul Janet
Les causes finales(1878出版らしい)を流しみたが、あくまで本の一部のみが公開されており、また公開部分には時間感覚に関する言及がなかった。

https://fr.m.wikisource.org/wiki/Les_Causes_finales

 

ということで、ジャネーの法則を批判するにはまだ研究が浅いが、原文とされる『記憶と時間概念の進化』に当たることはできたし、批判的な文脈で語られたという意味は理解できた。

あとは(いつもながら未来の自分に仕事をぶん投げているが)ポールの出版した本(1876, 1878とその周辺の年度に出版されたもの)に当たることが必要だろうか。

 

ジャネーの法則への批判を今後継続すると共に、メラビアンの法則ヒヤリハットの法則についても感想を喋るような記事を書いていきたい。

 

 

ハンドクリームの話

修士一年の私はこの頃、就職活動と授業課題、研究活動に追われている。

忙しくないと面白くない私はいつも、暇になる度に仕事やらコンペやらの予定を、赤いダイアリーへと書き入れるのだが、気が付くとその締め切りが一度に襲い掛かってきてあまりにもせわしない日々を送る羽目になるのだ。

 

もう一つ、この頃の関心事項がある。それが医薬品のクリーム関連だ。さほど肌がつよくない私は年中ハンドクリームを手放すことができないのであるが、ハンドクリームにもいろいろある。

特段こだわりのない私は化粧品類を全て資生堂にそろえよう(こだわりはないが、"こだわっている風を装うこと"には興味がある)としていた時期もあり、その間は「ハンドクリームN」やら「薬用モアディープ」やらを使っていた。しかしながら、Nはなんだかサラサラしすぎていて効果を実感できないし、モアディープは容器サイズが気に入らなかった。

このモアディープ、30gのチューブと100gのジャーの二種類が販売されている。30gは小さすぎるうえに、資生堂のジャーは蓋部分に変な溝があるがために蓋を閉じる度にハンドクリームが縁に押し出されて不快である。さらには、完全に私の管理不足だが、一度リュックサックの中でジャーのハンドクリームがぶちまけられる事故が起きてしまい、そんなこんなで使わなくなった。

そして今使っているのが「ヒルメナイド油性クリーム」だ。理系の私は、科学的なエビデンスに弱い。ハンドクリームには販売上の大きな分類として、化粧品と医薬品が存在する。

ご存じの通り、化粧品は効果効能をうたうことができないし、医薬品は効果効能がしっかりと表記され、薬用成分も明記されている。じゃあ医薬品択一じゃないか。そんなことに気が付いたのが昨年の暮れである。

当初は第三類医薬品の「ケラチナミン」を使っていたのだが、確かに効いている気がするものの、尿素系のこのハンドクリームは厭にべたつきが残り、あまり使用感がよろしくなかった。そして、市販ハンドクリームには第二類医薬品も存在し、主にはヘパリン類似物質系のクリームがそれに該当する。

当然、医薬品の分類としては第二類>第三類である(と単純な私は思っている)ので、現在はこれを使っているというわけだ。

しかしながら、なんとなくケラチナミンの方が効いている気がする。というか、ハンドクリームの有効成分が大きく尿素かヘパリン類似物質かに分けられるようだが、両方入っている奴は存在しないのだろうか。単純な私には、有効成分が二つあるならそれをガッチャンコしてしまえば"僕の考えた最強のハンドクリーム"ができると思うのだがどうだろう。

 

本当は、医薬品のハンドクリームを使うことによって、長い長い利きハンドクリーム探しの旅が終わる予定だったのだが、却って迷宮に迷い込んでしまった気がする。

皆さんはどんなものを使っているのだろうか。ぜひとも"どこでも買える良い商品"を教えてもらいたいものである。

 

自選記事6稿

ありがたいことに「きょうのはてなブログ」に拙作を取り上げて頂いた。

が、不満だ。こんなことを言うのもなんだが、あんな適当に書き綴った文章を他人に読ませるなんて我ながら読者に対するリスペクトが欠けているだろう。

私はこのブログを独り言/備忘録のように捉えていることもあり、記事の中には力を入れて書いたので是非読んで欲しいものや思いのほか筆が載って面白くかけたと思うものがあると同時に、適当に書いて思考の記録として残しておこう程度のものもある。

そして、今回取り上げて頂いた「きままに」なんてのは、適当に書いたものの筆頭である。当該記事の冒頭でも書いた通り、この頃は作業に追われつつ、結局ブログの一記事も書けていなかった。さすがにひと月に一度くらいは更新しておこうと思い、気ままに書いて投稿したのがアレだ。我ながら酷い。

そこで今回は、140ほどあるこのブログの記事の内、個人的に気に入っているものや比較的人気な物、よく書けたものなどをいくつか紹介することとしたい。

 

1. 焼き直しの文章について_私がブログを書く理由

これは結構お気に入りかつ、よく書けたと思っている記事の一つだ。

冒頭では衒学的にウォルター・ペイターの文章を引用しつつ、後半では私の"文章"に対する価値観を端的にまとめることができている。本ブログは独り言、備忘録ではあるものの、なぜわざわざ公開しているのかという部分がこの記事に表現できているだろう。

 

 

2.芸術についての雑考&土偶と現代芸術と

同時に二つの紹介をしよう。この二つでは芸術が主題であり片方は芸術の根幹となると私が思う考えを、もう一方では現代芸術に対する考えを書いている。こういった文章は何かしらきっかけがあるもので、芸術についての雑考はアーティゾン美術館の開館記念展「見えてくる光景 コレクションの現在地」をきっかけ、後者は山梨県立美術館の「縄文―JOMON―展」をきっかけとして書いたものだ。

この二つは気に入っているというよりも、よく書けているという印象が強い。本ブログでは時折芸術論を語り出すので、前提として読んでいただけると幸いである。

 

 

3.小沢健二の『愛し愛されて生きるのさ』の詞から眺める、Laura day romance の『olive drive』

皆さんは好きなバンド/ミュージシャン入るだろうか。私は所謂渋谷系の系譜が特に好きなのであるが、令和の現在においてはもうあまり強いムーブメントでないのは間違いないだろう。そんな渋谷系の王子と言えば小沢健二、書くいう私もフリッパーズから彼のソロまで、いくつも好きな楽曲がある。

そしてもう一つ、好きなバンド/ミュージシャンを挙げるのならば、Laura day romanceは外せない。きっかけはランダム再生だったのだが、彼(女)らの織り成す世界観に度肝を抜かれた。それが二年ほど前の話で、以来強い影響を受けている。

そんなミュージシャンとバンドの楽曲二つについて語ったのがこの記事である。これは面白いとかよく書けたとかお気に入りとかですらないのだが、とにかく好きなものについて語りつくした記事として紹介しておこう。

 

 

4.冷凍みかんと昆虫食と太陽光と

これは少しまじめな話。研究内容である「専門家と世間とのコミュニケーション」についての私のスタンスを書いた記事である。結局は確率論、リスクアセスメントとリスク認知の齟齬が主な関心事項であり、科学第一主義への批判が主題である。それなりにちゃんと書いた記事なのでお読みいただけるとありがたい。

 

 

5. No buses / Alpena 和訳

このブログでは英語歌詞の楽曲の和訳を時折行っている。アクセスランキングを見る限り、なぜかStrawberry SwitchbladeのSince Yesterdayの記事が一番人気で、No busesもいくつか和訳をしていてそこそこアクセスがある。

最近の和訳記事には、引用と言い張るために長々とお気持ちを書き綴っているのだが、その部分がよく書けているのがこのAlpenaの和訳についてだ。

本ブログのもう一面としてお読みいただけると幸いである。

 

 

以上

今回はこの6記事を紹介して終わりにしよう。クオリティはまちまちであるが、少なくとも「気ままに」よりかはしっかりとしているはずなので、ちょっとのぞいてもらえると嬉しい限りだ。

 

気ままに

最近は月刊ブログになっている気がする。

なんとなく書くことがないというか、書いている途中で別の作業を始めてしまって、ついぞ書ききらないままになってしまっている。

仕方ないから、どうでもいいことを思うままに書き綴ることとする

 

1. QRコード

便利な道具だ。私が小さいころは参考リンクといてばURLのベタ打ちだった。それは印刷物でも当然であり、いざ調べようと思ったらURLを打ち込まざるを得ず、なかなか苦労した記憶がある。というか今でもそれが一般的であろう。

しかし昨今、気が利く印刷物にはほとんど必ずQRコードが示されている。それをスマホで読めば簡単にページに飛ぶことができるため、ありがたいことこの上ない。だが、ここで問題がある。そうQRコードの作成である。

インターネット上には数多のQRコード作成アプリ(ウェブアプリ、パッケージの両方)が存在するが、ここに落とし穴があるのだ。まれに偽装QRコードを作成してくるアプリがあるらしい。さらに(悪い意味で)気の利いたものでは、多くの場合は意図したURLに、数回に一回は別のURLにリンクが飛ぶように設定されているらしい。これは巧妙である。

QRコードを作成する際に、大抵の場合はチェックの為に一度くらい読み込んで試してみるが、それを看破するために確率を取り入れる。面白いと思ってしまうが、悪質である。

 

じゃあこれからどうしていこう、そう思っていた時に発見したのがエクセルだ。エクセルをうまく利用している人間には有名なのかもしれないが、エクセルでもQRコードを作成できるらしい。

手順はやや煩雑であるためここでは紹介しないが、こういったものはググればすぐ出てくるのでありがたい。一回試しでやってみて成功すれば、あとはそれを覚える必要はなく、必要になった時に改めて調べてその手順通りにすればいいだけなのだ。

 

ということで試しに作成したのがこちら。

ブログトップへのリンク(QRコード

よく見るとすべてのマスが切られており、なんとなくエクセル感?がある気がする。繰り返しになるが作成はやや面倒であった。しかし、これで安全にQRコードができると思えば安いものである。

 

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追伸

なんならChromeQRコードが作れるらしい。

これはエクセルなんかよりもはるかに簡単でかわいい。難点を言えば、色の変更ができないことだろうか。

やり方は右上の「三つ点」ボタンを押して、保存して共有というタブからQRコードを作成を選ぶだけだ。簡単すぎる。クロームの恐竜も可愛いし、あまりかっちりとしていない余所行きではこれの方がいいかもしれない。

ChromeQRコード(ブログトップ)

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2. 勉学について

私の専門は原子力工学であり、現在は修士1年、絶賛就活中である。

そしておそらく就活は4月、遅くても6月には終える予定であり、(理系のはずがほとんど文科系になってしまった)私は研究室に足繁く通う必要はなく、修論はそこまでハードルが高くない。なんならこの3月までに多少のデータがそろいそうまである。

そこでだ、来年度何をするかが課題ではなかろうか。個人的には、もともとは大学院入学と同時に入るつもりだった慶應の通信が再び気になりだした。

法学、特に法哲学と政策に関連する部分に興味があり二重学籍が可能な通信大学として慶應を考えていた。しかしながら、現在通っている大学の教務課からは二重学籍はダメと言われてしまい泣く泣くあきらめていたのであった。

しかし、ここで活路を一つ見つける。それは科目履修生である。慶應の場合は科目履修生として履修した科目を卒業単位として含めることが可能な場合があると募集要項にある。私が思うに、慶應通信の卒業ハードルは一部の困難科目と卒業論文、あとはスクーリング科目である。そしてこの一部困難科目とスクーリングを在学中に済ませたいのだ。

私は人文科学に片足を突っ込んでいる都合上、博士までは進学しない予定である。そのため絶賛就活中であるが、さすがにフルタイムで働きながらの慶應通信は難しいだろう。卒業要件は124単位でありうち卒業論文が8単位、かつ学士入学は40単位が認められるので、正味必要な講義単位は76科目である。科目等履修生は年間10単位までしか履修できたいため、ささいなものかもしれないが課金する価値はある気もする。費用は

受験費用 2万

登録費用 4万

授業料金 5万~7万

 合計  11万~13万

であり、まあ許容範囲である。

 

だがこれ以外にもやりたいことはある。それは副専攻である。私の所属する大学院では副専攻も存在しており、やや気になる副専攻がある。必要なのは10数単位であり、おそらく半期あれば十分に対応可能である。それに副専攻なら費用が掛からない。指導教員への相談が必要であるが、人柄から鑑みるに二つ返事で頑張ってくれと返してくれそうである。

てか、どう考えてもこれが一番だろうな。金もかからないし、興味のある分野を学べる。うちの大学には法学は充実していないのでそれは後回しになるが、経営や経済学にも興味があるので良いだろう。それに、この分野なら頑張れば、事例研究をそれなりに自力でも行える気がしている。

 

もう一個思い出した、それは甲種危険物取扱者である。これは在学中にとりたい。てか、本当なら履歴書を書く前に取りたかった。このままだと乙種を4種類書き綴ることになってしまうので、なるはやで取りたい。来年度の目標で良いか。あと、英語試験も。TOEFLをちゃんとやってTOEICも一回くらい受けてみたい。

 

 

3. まとめ

ということで今回もどうでもいい話を書き綴ってきた。こういった文章を作成することは明らかに自分の為であり書いているうちに頭が整理される。もちろん、この文章は整理されていないうえに、推敲もされていないのでひどく退屈であろうが、仕方ない。こんなものはGoogle Driveに日記としてでもつければいいがこのまま公開することとする。

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追記

適当に書いたこの記事が「きょうのはてなブログ」に載ってしまったので、絶賛後悔中である。

本稿よりもまともなブログ記事を以下にまとめたので、気になったら見てみて欲しい。

taro0219.hatenablog.com

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私の恋と東京に寄せて

好きだったはずのその声だけが思い出せない

-私の恋と東京(詞:土岐麻子大江千里)-

 

私にとって東京は憧れの町ではなかった。関東平野の田舎で生まれ育った私は、気が向けばいつでも東京に上ることができたし、そのために乗る電車はいつも混んでいて頻繁に訪れたいとか、あるいはそこに住んでみたいとは思えなかった。

だけど、渋谷だけはあの渋谷系と呼ばれる音楽のように煌びやかで明るい街だと考えていた。実際はそうじゃなかったけれど。

 

2021年7月、銀座。歩行者道をゆく人影はまばら、休業中の看板が目に付く。焼き付くような暑さの中に、私だけがインターンへと向かう大学生のようにスーツを着込んで歩いている。

それなりに服が好きな私はつい、周りの人の服装に目をやりながら歩いてしまう。東京とは不思議な街で、駅をまたぐごとに人々の服装が全く変わってしまう。なんてのはもう何番煎じってくらい言われているけれど。スーツや革靴なんかが好きな私は銀座を道行く人の服装に憧れているから、東京(駅)へ上る時には必ずと言っていいほどスーツを着てしまうのだ。それが夏であっても。

 

閑話休題

 

東京の話ばかりしてしまった、タイトルは私の恋と東京に寄せて。

私の恋は大学生になった夏に始まった。終わりは知らない。

春に、「憧れの人が忘れられない」とは告げぬまま別れた恋人。あんなに長くいたのに、別の人を好きだなんて言って傷つけてしまいたくなかった。自分勝手だけれど。

数か月ぶりに夢で出会った君は、当時私が好きだった香水の匂いをしていた。

 

 

なんて未練がましいことを思いながら、結局原因となった手の届かなくなった憧れの人とは10分くらいしか話ができず、もう、いくら待ったって返信が返ってこないとわかりきっているSNSに、魂が吸い取られるようになっては暑い夏を感じないくらい寒い部屋で一人うずくまっていた。もうやめよう。そんな時にふと、恩があった方を食事に誘いそこでまた恋に落ちた。なんていうと自然みたいだけど、きっと本当は、目標がなくなった自分を奮い立たせるために、何とか代わりの偶像を見つけ出そうとしただけなんだと思う。そう頭で考えながらも、ロザラインをあきらめジュリエットとの恋に落ちたロミオを気取りながら生きることにした。心は偉大だからね。

 

 

私が再び目標を手にしたその日。もうあの日だろうか、私は生まれた。かつての私は恋に殉教し、再び生き返ったのだと。

 

我ながら気持ち悪い文章を書いてしまった。いつものことだったかも。

東京の丸の内にある「三菱一号美術館」。私一人の思い出の場所である。

当時の展示会はマリアノ・フォルチュニ。目まぐるし速度で変化を繰り返す絵画に、いくつも飾られたデルフォス、私はかねてから美術館へ訪れることが好きだったが本当の意味で芸術を考えるようになったのは、彼の展示会がきっかけだったのかもしれない。

 

あまりにも衝撃を受けた彼の展示会に好い人を連れていきたいと思った。しかしそんなことは夢のまた夢で、かなう事なんてなかった。それを分かりきったまま、連絡を取り続けた。あの人に渡したものと同じ、ヴァニラの香りがする紅茶を啜りながら。

 

私にとっての東京は銀座を中心に広がっている。私は片田舎の育ちだから、東京で恋に勤しんだ経験はない。けれども、東京はいつまでも独りであった私にとって何よりも恋を想った街である。

CLOVERの話

私がいちばん好きな漫画家(集団)はCLAMPで、その中でも『CLOVER』が好き。

『CLOVER』は、元軍人の主人公、琉がスウという魔法を使うことのできる少女を遊園地まで送り届けるという全四巻からなる短いお話。少しばかりディストピアチックで、スチームパンクな世界観を持ってる物語です。一応未完なのだけれど最後の発刊から20年も経っているので続きは出ないのかなと思っている。

1巻はスウを遊園地まで届けて終了、2巻以降は琉やその旧友である銀月、スウ達の過去が語られていきます。

 

今日の主題は『CLOVER』の芸術性について。なんていうと仰々しいのですが、純粋にこの作品を世間一般の漫画として話すというのは何か違う気がするのです。どちらかといえば、『CLOVER』の芸術性は純文学のそれに近く、お話そのものやその語り口にこそ美しさがあると思います。これは別に漫画という手段を貶めているわけでもなければ、表現の手法の高尚さなんてものを語るつもりもありませんが、私には『CLOVER』は『ツバサ・クロニクル』や『カードキャプター・さくら』といったより大衆的な漫画とは異なり、彼女らの持つより根源的な芸術性を主題とした作品のように感じられるのです。淡々としてた状況描写にコミカルな表現を行わずしっとりと続いていく登場人物らの会話、"必然性を感じられる彼らの行動"が純文学らしいのです。

私にとっての純文学は、"一つのルールに乗っ取って廻っていく作り物の世界"のことです。純文学において、私たち読者は、その世界のルールをはっきりと理解できているかどうかは別として、そこの住人の言動に必然性を感じ取ることができると思うのです。現実世界の様なまどろっこしさはなく、ただ純粋に言動を抽出することができるからこそ、筆者は、その語り口や表現に拘り、"純"文学を行う事ができるのだと思っています。

 

例えば、私がよく引く太宰文学なんかはその典型です。『人間失格』について語るとき、おそらく多くの人間は主人公である大庭葉蔵へ感情移入をしないでしょう。彼を可哀想だと思う人間がいなければ、だからと言って彼を強く非難する人間もそういない。一見、目に映らないガラスの壁が私たち読者と葉蔵との間を阻むのです。

そして太宰文学は何も語りません。彼の提示する世界の中のルールで人が生きて死ぬ。その光景を私たちは安全な場所から眺めるのみであって、葉蔵のふとした言葉に感銘を受け勇気づけられたり、あるいは彼の言葉を間に受けてひどく考え込むこともないのです。それはまるで、朝目覚めた後に一口含む透明な水のようであり、確かに我々の中に入って来やするが、その実ただすぐに体外へ流れ出てしまう水そのものなのです。

太宰文学について言葉が続きすぎました。閑話休題

 

CLAMPの『CLOVER』と言う作品は全く同様の効果を持っていると私は思うのです。それこそ、ただその作り上げられたルールを眺め、ほんの少しだけ決められた仕事をしてすぐに私たちを置いて消え去る水のような印象が、『CLOVER』にはあるのです。

私の人生を変えてくれた書物は確かにあります。『後世への最大遺物』など。しかし『CLOVER』は私の人生を変えないでいてくれたのです。そしてそれは、勇気づけもアドバイスもよこさないからこそ純粋な文学で、純粋な娯楽であり続けるのです。

今日の話

1. 仁丹の導入

仁丹(メタルケース)

 

口内ケアに気を使っているだろうか。ガムやタブレット、マウスウォッシュや舌磨きなどなど様々なグッズが存在するが、私は基本にタブレット、その中でもミンティアを愛用してきた。

いつもながら、それに特段の理由はなく、気にし始めた当時の友人が常にミンティアを持ち歩いており、飲み会の度に一粒譲ってくれていたことに影響を受けただけである。

 

そうしてミンティアを持ち歩く日々が一年くらい続いたが、なんとなく好かなかった。共感してくれる人も多いかと思うが、ミンティアはおなかが緩くなる気がする。私は禁煙歴がなければBMIも普通の範囲内であるが、なんとなく口さみしい感覚を受けるときがあり、そんな中でミンティアを常備していると、ついつい口に運んでしまい、日に数個も食べてしまうと体調がちょっと悪くなってしまうばかりだった。

 

色々思いつつも、結局いいものには当たらず、ガムだと後処理が面倒だしマウスウォッシュやらを持ち運ぶのもはばかられる。結局タブレットがよいなあと思いつつ発見したのがこの仁丹だ。仁丹の再発見。

 

 

中身

 

昭和のおじさんの必需品みたいに言われるようだが、正直未だ学生の身分である私にはよくわからない。仁丹。その名前を聞いたことがないか、と言われると聞いたことはある気もするけれど、なんだと聞かれると答えられない。それくらいの認識しかない商品であり、プラスの印象もマイナスの印象もない。古臭い印象すらないのだ。

 

私の購入した商品は、180 [粒/包] × 4 [包] = 720 [粒] 入りで、金もしくは銀色のケースが付いてくる。このケースは 68 [mm] × 15 [mm] 程度の大きさで持ち運びには非常に適したサイズである。太い方のパーツの天井にスプリングが仕込まれており、ボールペンのように頭を押し込むことで、上下パーツの孔と孔が一致して仁丹が出せるようになる。押さない限り匂いも閉じ込められているし、そこそこよくできている。

なお、このケースカラーは選べないことがほとんどな模様。悪しからず。しかしながら高々仁丹ケースだからいいだろう。私はヨドバシカメラの通販でよく時計ベルトを買ったものだが、尾錠の色が選べないのには納得いかない。時計と色と違ったら普通気になるだろう。まあ、元の尾錠を付け替えるからいいのだが。閑話休題

 

仁丹の服用は胃の不調の際にはそのまま嚥下、口内ケア(口をすっきりとさせたい場合)としてはかみ砕けばよいらしい。服用は一回10錠で一日10回まで、つまり100錠まで飲めるらしいので、ミンティアの様な体調不良にあたることはまずなさそうなのが安心である。

レビュー等でも言われる匂いだが、正直私はあまり気にならない。ちょっと独特な香りがするのは確かであるが、薬草と言われて想像するような少しスッとする雰囲気で、香ろうと手に出したが、自分の手の匂いに紛れてしまうくらいには弱い香りであった。

また、味についても生薬と言われる少しの苦さと清涼剤のさわやかさの相まった、いたって普通のもので特段コメントはない。

 

そんな仁丹であるが、さて、いつまで続くだろうか。今年はさほど飲み会の予定もないため活躍は少ないかもしれないが、まあ、今年度いっぱいくらいは試してみようと思っている。

 

 

 

2. 撮影会

久しぶりにカメラを持って外へ出かけた。

この半年ほどはカメラを持って出かけることが少なかった気もする。前期の内は授業が多く、休みが少ない上に休日はバイトに出かけたりしていたため撮影を行う機会がなかった。そのうえ、少ない休みは別の目的で人と出かけることも多々あり、自分一人でカメラを持って出かける機会を作れなかったのだ。

ちなみに、私は人と出かける際や旅行の際にはほとんどカメラを持たない。私が撮影したいのは日常であって、特別な場所ではない。知人との外出は、わざわざ人の歩みを止めてまでカメラを取り出す心算もないし、旅行の内容は、ipadに記録をしたりするのでカメラは必要ないのだ。

 

撮影は全てKonicaminolta α sweet digital

 

陽の傾き

絞り : f/13

露光時間 : 1/800

ISO : 400

 

 

 

 

絞り : f/6.3

露光時間 : 1/160

ISO : 100

 

今回は二枚だけ。ちょっと時間がある時に出かける公園での撮影であり、本ブログで書いた撮影会という名目の中では、何度か登場しているいつもの場所である。

もうちょっと撮影した写真はあるが、私は人と比べると枚数が少ないだろう。今回も、没になったものを入れてもおそらく30枚は撮っていない。これは、フィルムカメラ(特に12枚しか取れないブロー二―)をきっかけにカメラを始めたための嫌いかもしれない。

まあいずれにせよ、対してよい写真が撮れなかったうえに、未だに逆光気味の構図にハマっており、進歩が見られないことも悩みどころではある。