ココボロだとか好きだとか

大学院生による独り言と備忘録

思いの外_20240516

思いの外、思い通りに生きていくことは難しいのだ。

 

ゆったりと紅茶に砂糖が溶けてゆくように、だらりとした時間が私の首根っこを掴む。未だに、手持無沙汰な時における心持の抑揚は、蒼惶としていてあまり好まれないでいる。私にとって、あくせくと動き回っているときの方が、却って鷹揚な心境でもって日常を送らせることができるのだ。他人事。

 

時折、自分自身の連続性というものがあやふやになる。これは、全くもって自分を見失ってしまうとか、自己同一性を疑うような考えとは異なるものの、過去に書いた文章に対して、ある種の文学的な喜び、あるいは好奇心をくすぐられるような発見を再発見するような、心情であって、決してそれがすでに述べたような私自身の不安定さを表しているわけではないと思っている。

 

 

「陽の当たる大通りを、アステアみたいにステップ踏んで」

 

Pizzicato Fiveの大好きなあの歌が、頭の少し上のところでなり続けている気がする。いや、正確に言えば大好きな曲ではなく、もっと嫌ってもいいくらいに湿ったの曲なのに、何故か自分自身の後ろ暗さを言い当てられたようで、それがあまりにも自分自身の色を纏っていて嫌いになれないでいる曲と言ったほうがいいのかもしれない。

私はもっと、もっと楽しく生きていけるのだと思っていた。

私はもっと、もっと活動的に生きていけるのだと思っていた。

私はもっと、もっと後腐れなく生きていけるのだと思っていた。

私はもっと、もっと過ち少なく生きていけるのだと思っていた。

私はもっと、もっと信念強く生きていけるのだと思っていた。

だが、思いの外、思い通りに生きていくことは難しいのだ。

 

私が必死になって手に入れようと思った目標を、当然のように手にする人間だっているのだ。それと同時に、私が当然のように有するものを、必死になって手に入れようとする者もいる。私は、自分自身がその目標に手が届かないという現実以上に、自分が大して思い入れもないくせに当然のように有するものを、それを必死に追い求める人間に簡単にそれを呉れてやれない自分自身に失望を想うのだ。

 

やおらミルクが紅茶へと混じっていくように、徐々に自分の思考の色が薄まってゆく感触がある。それは単なる睡魔の誘いかもしれないし、単にこれ以上の思考を止めんとする自意識の欠片なのかもしれない。

思いの外、思い通りに生きていくことは難しい。それは、思いというものが自分にとってすらあやふやだからなのかもしれないし、何かしら一定の範囲をもって決定することができないからなのかもしれない。