ココボロだとか好きだとか

大学院生による独り言と備忘録

No.9 『CAMUSのカラフェ』

CAMUSのカラフェ

水を飲む。たったそれだけの行為にどれだけの重要さを見出すのだろうか。

人間は水を飲まなければ生きていけない、というのは過言であるだろう。一日に必要な水分量の約5割は食べ物から得ているのだから、もっと水っぽいものを食べれば、水そのものを飲まずとも生きていけるのではないだろうか。

また、この運送技術や食品の保存技術が発達した昨今では、家にいようとも喫茶店と同じような珈琲や紅茶をパック詰めで簡単に入手することができ、あるいは海外から取り寄せた貴重なワインを気軽に楽しむことができるのである。

では一層、こんな時代では"ただの水"など飲む必要などないのではなかろうか。

 

このカラフェはもともとコニャックが入れられていた容器である。BACCARATのクリスタルガラス製の容器で、幾何学的に引かれた溝や素直にくびれた注ぎ口など無機質な美しさが内在している。

朝日の頃、この容器は最も美しく輝くのである。まだ寝起きの時間の、若く力強くありながら柔らかな陽の光を纏う時、このクリスタルガラスは無色透明に、かつ自然界に存在する一切すべての光を孕みながら美しく呼吸する。その姿は非常に無機質でいながら、どの瞬間も常に移り変わる生命の様な光沢を有するのである。

 

 

実はこのカラフェ、二代目である。本当はCAMUSの刻印の入っていない、まったく無地の容器を購入し半年ほどウォーターピッチャーとして利用していたのだが、不意に小突いて机から落としてしまい、泣く泣く二代目を購入したのだ。もとはCAMUSの古酒が入っている商品であるため、容器のみであれば幾分か安いのであるが、腐ってもBACCARATのクリスタルガラスであり、数千円はくだらなかった。

 

また、私は生来の無精者であるから、水なんぞに拘ったことはない。ペットボトル詰めされた水を飲む者はなんとなく気取って見えるし、水道水が至らないと思ったことはない。

というとやや嘘が混ざっている。以前千葉で少し過ごした時、水が合わなかったことがある。自宅と同じ銘柄の紅茶を自宅と同じ方法で淹れても全く味が違かった。千葉で飲んだ紅茶は恐ろしく不味く、これが水の違いなのだと思わされた(あくまで私に水が合わなかったのであって、不味いというのは味の良し悪しではなく、口に合う合わないという表現である)。一方、東北のスキー場に泊まった時はあまりの水のおいしさに感動し、永遠に白湯を飲み続けたこともある。

であるから、水の好み自体は私にもあるものの、水道水そのものがまずいと思ったことはない。千葉の時も、紅茶の味に違和感があっただけで、水そのものや白湯にした時には別段好き嫌いはあまり感じなかった。

しかしながら、変なものに拘る性分であるから容器に惹かれてしまったのだ。私は日に2ℓほどの水を飲むように心がけており、飲んだ量が分かるようにいつも500mℓの透明な水筒(金属製だと匂いが移って厭なのであった)に入れて飲んでいた。毎日幾度となく行う行為であるから、日常にこそアートをという表題よろしくカラフェの購入に至ったのだ。

 

唯の水瓶に使い勝手もくそもなく、ただの容器である。強いて言うのであればガラスなので重い、それだけだ。元のプラ容器の方がはるかに軽く使い勝手がいいのであるが、見た目よりも重要なことがあるだろうか。"丁寧な暮らし"なんてVlogに憧れることは未だないのであるが、使いたいものやよく使うものにこそ好きな道具を用いることは、納得感を上げる有用な手段なのだと思う。

 

余談ながら以前から食器が好きで、NoritakeのJulietよろしく様々集めたいと願っていたが、今一番欲しいのはRosenthalのスタジオラインはダブルステムのワイングラスである。

一人暮らしをする際にはNarumiのnomaddで器をそろえ、クリストフルの、五十嵐威暢のTI-1のカトラリーで生活をしたい。茶器はやはりNoritake×Marc Newsonだろうか。あまりにモダンに寄りすぎている気がするのだが、「アートのある生活」というRosenthalの表題のように生きていきたいのだ。