花束というものを私はやや特別視していて、それはきっとフリッパーズのせいなのだろう。彼らの書いた詞の中で花束が出てくるのは3曲のみで、いずれの曲においても"花束"は"言葉を代替するもの"として描かれている。真っ先に思い出すのは、1990年11月発売のシングル『ラブ・トレイン』の歌詞ではないだろうか。
でたらめに抱きしめて僕たちのラブ・トレイン
饒舌な花束とビッグ・バン・ブーな退屈
(ラブ・トレイン)
饒舌な花束とは見事な形容で、花束とは何であるかを明確に表してる。花束は通常、慶弔に際して送られるものである。それは、喜ばしい門出の日や表彰において、あるいは病の見舞いや墓参りに用いられるものであって、そのいずれにおいても言葉では言い表されない思いや感情を相手に送りつけるために介在される物質である。意味合いは時々において大きく変わるのであるが、状況に合わせて花束は饒舌に、祝いの感情や弔い、懺悔、あるいは愛を伝えるのだ。
次の心当たりは1990年6月のセカンドアルバムから、『ラブ・アンド・ドリームふたたび』だ。
ありふれた言葉を繰り返すだろう 向こうの見えない花束のよう
甘いニヒリズムが笑うときにも love and dreams for all
(ラブ・アンド・ドリームふたたび)
こちらは先程の引用とは全く逆で、何も語らないことを意味している。よくあることではないか、心にもないことを言ったりその真意が読み取れないような言葉を紡いだりすることは。そのイメージとして語られる花束はご尤もで、続く「甘いニヒリズムが笑う」だなんて台詞も「貴方がたがそんな言葉を吐くのか」といった面で面白い。花束は本来饒舌で、わかりやすく真っ直ぐな思いを示すからこそ「向こうの見えない花束」という言葉がお世辞や皮肉なんてもの、全く意味を持たないことを表して、ニヒリズムだなんて言葉を紡がせるのでしょう。
最後の引用は同じく2ndアルバムのCAMERA TALKから、『午前3時のオプ』である。
耳をいつも澄まして 17歳の僕がいた
花束をかきむしる 世界は僕のものなのに
(午前3時のオプ)
この引用では、もらった花束に納得のいかない心情が示される。私としては、「どうしてお前なんかが俺に花束を寄越すのか」の意味で受け取っている。というのも、この曲はティーンネイジャーの自己中心的な衝動にまみれた、脈絡や合理性のない言動を歌う曲だと思っていてるから、ここの歌詞は「世界は僕のものなのに、(僕にとっては)僕よりも偉くないはずのお前が、上から褒め称えるような言葉を呉れるのかよ」という反発心を感じるのだ。
まあ語りたいことは語った気がする。冒頭にも語った通り、私は花束というものに過剰な思いを寄せていて、気軽に渡すのは憚られるような感情を覚えている。特別視というとややいいことのようにも思えるが、とやかく言わず、自分の心を饒舌に表してくれる物質的な媒体として、花束をもっと身近にしていきたいとも思うところなのである。