ココボロだとか好きだとか

大学院生による独り言と備忘録

雑多記002

物心二元論

我々は通常生きる際に体や心というものをそこまで意識せずに生きている。精神的な葛藤があると、頭でわかっていても心がそれを拒むという現象がまれに起こる。頭と心というのは、私が日本人であり、その単語に少々の含みをもたせるがゆえに通じるだけである。しかし、heartという英単語が心臓と心どちらをも意味するということからも、胸が痛むという表現は日本人特有でなく、幾つかの種族に共通している感覚であると言えるのかもしれない。

 

ところで、コンピュータとはハードウェアとソフトウェアとの2つの側面からなる存在である。一般的にその物質としての要素をハードウェアと呼び、プログラムなどの情報の羅列やまとまりをソフトウェアと呼ぶ。以上のことからも、ソフトウェアは単体では存在できないことがわかる。あくまでソフトウェアの記録されたハードウェアが存在しなければいけない。けれどこれはハードウェアの優位性のみを示すものではない。なぜならソフトウェアは空間の制約をほとんど受けないからである。

このご時世、インターネット通信など電波の存在によって情報はほとんどタイムラグ無しで伝えることができるようになった。物質を地球の反対側へ送るのには現代の技術を用いても十時間単位が最短であるにも関わらず、情報は数十秒単位で伝えることができる。これは間違いなくソフトウェアの優位点の一つである。

 

ただその優位点はいずれなくなるかもしれない。3Dプリンタは間違いなく人類の偉大な発明の一つであり、これこそがワープ装置の始祖である。遠く離れた空間にソフトウェアを送りつけることによってハードウェアを再現することができる。

 ソフトウェアの利点、空間に縛られないというその性質を用いて、はるか遠い空間にハードウェアをもたらす。もはや人類は空間に縛られることはないのかもれない。時間距離などという概念はなくなってしまうのかもしれない。

 

 

本当はハードウェアとソフトウェアの交わり

物心二元論への回帰

ハードウェアの死、ソフトウェアの死、両方の死といった3つの視点から死を考える

などなど長文にしたかったのですが、今の私には文章力も集中力もないためここでお開きにいたします。それでは。