ココボロだとか好きだとか

大学院生による独り言と備忘録

カメラ用の防湿庫を購入

防湿庫を購入。

 

私がカメラを始めたのは2021年の4月、Minolta Autocordを購入してからなのですが、今頃ようやく防湿庫を購入しました。

というのも、Autocordの購入後、すぐさまKonica C35-EFを購入していたのですが、どちらもフィルムカメラ。それに二眼レフとコンパクトカメラなのでどちらもレンズの取り換えには対応しておらず、あまりレンズのカビや曇り等に気を配っておらず、そもそも防湿庫というものの存在を知りませんでした。

そして最近デジタル一眼レフ(KonicaMinolta α-Sweet DISITAL)を購入し、ついでにレンズも2本購入したので、レンズのカビだとか曇りだとかの話題を知り、重い腰を上げて防湿庫の購入に至りました。

 

 

と言っても、貧乏学生なので、何万円もする防湿庫には手が出ず、適当に安売りされていた古の防湿庫、TOSHIBA DC-45を購入しました。

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Toshiba DC-45

内容量は40ℓであり、内寸は235×395× (奥行×幅×高さ[mm])とそこそこの容量。私が持っているのは現在、二眼レフ、コンパクトカメラ、一眼レフ、レンズ3本なので、今のところは一段で十分。

ただし、今のところKonicaのフィルム一眼とそのレンズ3本、Minoltaのコンパクトカメラ、Sonyコンデジが欲しいなと思っているので、そうなるともう一段、2段必要かなってところです。

古の防湿庫なのでいつ壊れてもおかしくないのですが、一応アナログの湿度計はしっかり回っていますし(正しい表示かどうかは不明)、湿度計によると湿度もしっかり変化しています。

あまりにも写真がひどいのはやる気が出ないのと、カメラを入れたままで取りたいのでスマホしか撮影器具がないこと、正面からとると私が反射してしまうためで、いろいろ考えるのが面倒くさく、適当に撮影したからです。

 

 

まあそんな感じ、想像以上に大きいので微妙に置き場所に困るのですが、当面はこれで困らないでしょう。あまりにも格安だったため、棚が付いていないのですが、これは適当にホームセンターとかで材料をそろえれば1,000円しないで揃えられるでしょう。以上

α-Sweet DIGITAL 購入

KonicaMinolta の α-Sweet DIGITAL を購入してから初めての野外撮影に行ってきました。

 

デジタル一眼どころか一眼もデジタルも初めて。これまでは、Minolta AUTOCORDという二眼レフとKonica C35 EFというコンパクトカメラの二機を使っていました。

まあ、この文章だけでなぜ今頃になってα-Sweet DIGITALを買ったのかわかりますよね。ミノルタの二眼とコニカのコンパクトカメラ、じゃあデジタル一眼を買うならコニカミノルタになるのが当然で、α-7 DIGITAL と α-Sweet DIGITALとで迷った結果、後者を選びました。

一応α-7 DIGITALの方が高級機種なんですが、より大型で取り回しづらいこと、あとは画素数がどちらも約610万画素と違いがないため、小型のSweetを選択しました。それに相場もα-7 DIGITALの方がだいぶ高く、対してSweetは比較的安価でして、私は6,000円程度で購入してます。

 

これまでフィルムカメラしか使ってないので、あまり比較はできませんが、フィルムと比べてもちろん使いやすい。ピントも自動で合わせてくれるし、ISO感度だって変えられる、露光やシャッタースピードを気にしなくても写真が撮れるので、だいぶ楽ですね。あとは何よりも、撮影した写真を現像などせず確認できるのが、便利ですし、お財布にやさしいと思います。

 

 

不満というかよくない点でいえば、α-Swee DISITALはメモリがCFカードってこと。知ってますか?CFカード。私は知りませんでした。コンパクトフラッシュはどこだかの登録商標なので一般にはCompact Frash の頭文字をとってCFと呼ぶらしいですが、とにかく高い。

今どき、SDカードやmicroSDなら124GBを2,000円程度で購入でき、非常に感動していたのですが、コンパクトフラッシュだとそうはいかない。2,000円だと4GBとかしか買えないので結構高いんです。一応、SD-CFの変換アダプタが売ってますので、使えるっちゃ使えますが、私の場合はアダプタの個体差か製品仕様かわかりませんがSD(無印)しか読み込まず、SDHCやSDXC等は読み込めませんでした。仕方なく自宅にあったSDカード124MBを使ってその場をしのいでます。

自分で書いていても衝撃ですが、メモリーカードMBってなんだよ。今時2GBのSDカードすら売ってないのに...って感じです。これが何と、最高画質だと19枚しか写真が取れず、フィルムカメラよりも枚数が少ない笑。

私はフィルムで慣れているので、19枚もあれば十分一日楽しめるのですが、イマドキ少なすぎるでしょう。

これからは16GBくらいのCFを買って、撮影したらSDに移すという両者のいいところを完全につぶすスタイルで行こうかなと思っています。せめてSDHCを読んでくれれば5,000枚くらいとれるのでうれしいのですが、2GBのSDカードだと300枚くらいだし、そもそもSD(無印)自体イマドキ誰も買わないので売ってません。

 

そんなこんなでつらつら書いてきましたが、もう一つ不満がある。それは内臓ディスプレイがあまりにもひどいこと。撮影した写真を瞬時に確認できるのが内臓ディスプレイの利点なのに、画素数がどれくらいだか知りませんが、あまりにも貧弱です。このディスプレイで写真をみるとよくわからない。全部の写真が悪く見えます。というかぶれた写真とぶれていない写真の区別すらつかないため、なんのための内臓ディスプレイかわかりません。

 

 

という二つが不満な点ですね。といっても発売が2005年ですので、仕方ない気もします。カメラのメモリとしてコンパクトフラッシュとSDカードはまだ競いあっていた時期でしょうし、11万画素のディスプレイもコスト的に限界だったんでしょう。

あとは写真の画素数。610万画素の写真というとあまりきれいじゃない写真な気もしますがそんなことはない。確かにもう5年前のiPhoneⅩですら1200万画素ですし、SONYのαカメラのなかで最も高い画素数は6100万画素という世界なので、610万は低い画素数といって間違いないでしょう。でも、個展を開いたり、A4で印刷するとかをせず、ネットに挙げてPCやスマホで確認する分には十分かと思います。

 

 

いよいよ作例ですが、2枚とも

機種 : α-Sweet DISITAL 

レンズ : KonikaMinolta AF DT 18-70

で撮影しています。

 

絞りf/8、露光1/250s、ISO-100

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赤い葉

私は赤と緑が好きなので、こんな写真ばかりになりますが、おそらく今日のベストショットはこれです。

 

あとは自宅での写真ですが。

 

絞りf/5、露光1/60s、ISO-100

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...DI TEATRO

Marino Marini のリトグラフの撮影。後ろの壁紙の剥がれが気になりますが、まあまあきれいに撮れていると思います。

 

 

以上長々と語りましたが、私としては満足。これ以外にもレンズを二つ買っているので、それらも活用していきたいと思います。

 

以下追記、

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My Konica

先程ついでにC-3EFを撮影しましたが、結構いい感じ。

ちなみに前にも書いたかもしれませんが、このコニカ、ジャンクで買ったため撮影できるだけで十二分の実力発揮なのですが、一点だけ、枚数のカウンタが動かない。別にじゃんじゃん取って、撮れなくなったら終わりにするだけなんで実際問題大したことはないんですが、やっぱりないとなんとなく嫌な感じ。修理に出して治るものなのかわかりませんし、修理に出すならファインダーとかの曇も取ってもらいたいしで、お金がかかりそうなのが難点です。

 

あとは、結構コンパクトカメラが好みでしてこの形状やそのこだわりに心を奪われつつあります。今はMinoltaのHi-machicがほしいななんて思いながら自分のカメラを眺めています。その次は、Konicaのフィルム一眼、最後にSonyのコンパクトデジタルカメラを買えばコレクション的には十分かな。


以上

MUJIのニット購入とコニカミノルタα-sweet digital について

MUJIのニットを購入しました。

 

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MUJIのニット

写真でわかっていただけるかは微妙ですが、このメランジ感が素敵。

 

ニットとしてはいたって普通で、クルーネックのオーソドックスなニット。特にこれといったデザインもなく、しいて言うなら少しネックの開きが小さめなくらいです。

普段は何も迷わずMサイズ択一な私ですが、今回ばかりは気分的にLサイズを購入しました。サイズ感としては袖が少し余るくらいです。

カラーリングに緑もあって、ものすごく迷った末にネイビーに。基本的に冬は真っ赤なニットしか着ないんですが、メランジ感がとにかく良いためどっちか欲しいなと一目惚れしてしまいました。本当は緑の方が色の混ざり合いがよく出ていたのですが、ネイビーは私の大好きな作品である、宮本三郎の『ヴィーナスの粧い』のような色合いだと感じ、美術好きとしては外せないと思い購入に至りました。

参考 ヴィーナスの粧い(http://www.miyamotosaburo-annex.jp/kidsguide/venus/)

 

ちなみに写真ですが、新たに購入したKonicaMinoltaのα-sweet digitalにて撮影しました。一眼レフは初めての購入で、Minolta Autocord、Konica C35-EFに続いてのコニカミノルタです。集大成って感じですね。もともとはα-7 digitalが欲しかったのですが、中古相場的とスペックを鑑みるとsweetの方がよいのではないかと思い至り、購入しました。

そもそもデジタルカメラも初めてだし、デジタル一眼も初めてなんですが、まあフィルムよか全然取りやすいですね。ただ、対応しているメモリがコンパクトフラッシュとかいうすでに死に絶えた(言い過ぎ)メモリのせいで、これはこれで不便。

SDカードのアダプタを使ってみていますが、一昔前の128MBのSDだと読み込めますが、新たに用意した32GBは途中でエラーになる。128MBだとおそらく50枚も撮影できないので、ちょっとなあ。SDHCはダメなのか、SDなんて2Gまでじゃないかと思いつつ、コンパクトフラッシュを買おうか悩んでます。そんな感じ。

使い勝手は非常に良い上に、写真もいい感じ。カメラ本体の画面だとクソみたいな写真にしか見えませんが、PCに移すと結構いい感じ。

 

 

太宰治『葉』と、J・S・Millの引用による言集

死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。 (太宰治, 葉)

このあまりに有名な書き出しは、本当に太宰治らしい一文であると思う。

本当はフランスの詩人Paul Marie Verlaineの以下の文が頭に引用されているため、書き出しではないけれど。

選ばれてあることの
恍惚と不安と
二つわれにあり (ヴェルレヌ)

私には学がないからはたしてヴェルレヌのどの詩集のどの編からの引用なのかはわからない。いわゆる孫引きというやつだ。

 

私は太宰治の書く文章が好きだ。好きな作家を挙げるのなら、太宰治三島由紀夫大江健三郎だろうか。といってもあまり多読を行うわけでもなければ、ひどく気に入った文章を何度も読むわけでもない。気が向いたときに気が向いただけ活字を貪り、気が向いたときに気が向いただけ活字を綴る生活をしている。

 

自然な文章。太宰の文章は読んでいて心地がいい。彼は自身の考えを押し付けてこず、ただ淡々と流れる水のような文章を書くからだ。その一方で三島はやけにハキハキと文章を綴る。それこそが三島の良さであると考えているし、子気味よく必要十分な修飾語で満たされた彼のお話は、いつ開いても非常に感心しながら読み進めることになる。そして大江の本は厭にべたべたとしている。優柔不断な主人公にだらだらと続く地の文、一見奇妙奇天烈なお話でありながら、読了後に残る余韻と"学び"がある気がするのだ。

 

閑話休題

 

 

太宰の『葉』の中でもお気に入りの部分がある。それが以下の一文だ。

安楽なくらしをしているときは、絶望の詩を作り、ひしがれたくらしをしているときは、生のよろこびを書きつづる。(太宰治, 葉)

なんと人間賛歌的な一文であろうか。人が「人間賛歌な文章だ」という時は決まって感動的なお話ではない。若い二人のラブロマンスとか長く連れ添った夫婦だとか、善人が報われる話でもなければ、悪人が罰せられる話でもない。普通(に思われる)人間が泥臭く生き、どんなに絶望しようともあきらめずに何とか小さな糸を手繰り続ける。そんな極限状態であったとしても、一縷々の希望の灯を絶やさないでいる物語に対して人は「人間賛歌」という言葉を使う。

 

こんな話をするときにいつも悩むことがある。

それは John Stuart Mill の「満足な豚であるよりも、不満足な人間であり、満足な人間よりも不満足なソクラテスであるほうがよい」という言葉に対しての私の立場だ。

 

私は不満足なソクラテスになりたいと思ったことはない、というのは嘘だ。たしかに、私は私自身であることを誇りに思い、そして私が享受しており、Millに言わしめれば"高等な"快楽を得られない人間を馬鹿にしている。ただしそれと同時に、私にとっては辱めに違わない言動を取ることに恥じらいを持たないでいられる人間やMillの言う通り"低俗な"快楽に満足できる人間をうらやましく思っている。

東京の大学で勉学に励み研究に時間を費やす陰鬱な大学生なんかよりも、田舎に住み高校卒業と同時に恋人を孕ませ、すぐに働きその年に生きるような人間になりたかった。そんな人生に満足しながら、日々の暮らしを生きながらTVに文句を言うようなくだらない人生を生きてみたかった。

なんていうとただのプライドが高いだけの学生の愚痴になってしまい、人が人なら炎上してしまうような内容ではあるが、これが本心である。

私はある程度Millに同意しており、確かに快楽は"高等なもの"と"低級なもの"とに分かれており、そして私は"高等なもの"を望んでいたい。そこに私自身が文化人でありたいという驕りとプライドがあるのは否定できない。むしろ私はそのプライドのために生きているといっても過言ではない。Millが言語化したこのプライドに支えながら私は生きていると同時に、その言葉に縛られながら、何かを否定しつつ生き延びでいる。

 

人間賛歌的な表現を見た時に私は悩んでしまう。大抵人間賛歌的な言動を為すのはそれなりに良い暮らしをしてきた人間ではなく、泥臭く生きてきた人間だからだ。太宰はその境界を越えては戻り、人間賛歌を行っている。彼の生まれ育ちを考えれば人間賛歌的に、泥臭く人生を生きる必要はなく、もっと優雅に生きてゆけるような人間だっただろう。しかし彼本人は、悠々自適に生きたことに違いはないが、なんとなく泥臭く、何かにすがるように、人間賛歌的に生きていたように思われれる。

その証明の一翼となるのがあの引用のように思われるのだ。

安楽なくらしをしているときは、絶望の詩を作り、ひしがれたくらしをしているときは、生のよろこびを書きつづる。(太宰治, 葉)(再掲)

 

 

そしてこの一文に続くは、

どうせ死ぬのだ。ねむるようなよいロマンスを一篇だけ書いてみたい。男がそう祈願しはじめたのは、彼の生涯のうちでおそらくは一番うっとうしい時期に於いてであった。男は、あれこれと思いをめぐらし、ついにギリシャの女詩人、サフォに黄金の矢を放った。あわれ、そのかぐわしき才色を今に語り継がれているサフォこそ、この男のもやもやした胸をときめかす唯一の女性であったのである。
男は、サフォに就いての一二冊の書物をひらき、つぎのようなことがらを知らされた。
けれどもサフォは美人でなかった。色が黒く歯が出ていた。ファオンと呼ぶ美しい青年に死ぬほど惚れた。ファオンには詩が判らなかった。恋の身投をするならば、よし死にきれずとも、そのこがれた胸のおもいが消えうせるという迷信を信じ、リュウカディアの岬から怒濤めがけて身をおどらせた。(太宰治, 葉)

この文章から文頭の言葉以上に太宰らしさを感じずにはいられない。彼の執筆はどこからか題材を探し出してきて、彼なりの自由な感性でその詳細についてを綴り、物語を色づけることで成り立っているように思う。

そのうえで特に思うのは、この引用の序文、「どうせ死ぬのだ。ねむるようなよいロマンスを一篇だけ書いてみたい」という文章だ。あまりにも太宰。何とも言えないほど太宰治なのだ。この文章が彼を言い表しているのではないだろうか。

 

なんやかんや適当に思いのまま書いていたら二千五百字を超えていた。もう直ぐ、甲種危険物取扱者の受験もあるころだからこの辺で失礼しよう。

どうにか、なる(太宰治,葉)

         

マークニューソンのカップ

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Marc newsonカップ(底面)

 

購入品紹介、Marc Newsonカップです。

ideeにて購入。というかideeのオリジナル商品のため当然です。もともとマーク・ニューソンはideeでキャリアをスタートしたらしく、パーティー用に制作したものを商品化したことが、このカップの由来のよう。

ずっとほしかったカップですが、近くのideeには売っておらず、またサイズも3種類あるため通販で買うのはためらわれており、数か月間悶々としておりました。

 

そして先日東京へ行った際にideeTokyoに立ち寄ったら、なんと食器やカトラリーがフルセットで置いてあり、衝動買い。

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Marc newsonカップ

なんともよくできているとは思いませんか?使い捨ての紙コップをモチーフに綺麗な白磁で作られたこのカップ。側面の溝や側面下部のへこみなど、本当によく再現されています。それでいて少し重量があり、しっかりとした白磁の質感が見た目と本質との違和感を作り上げています。

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Marc newsonカップ側面



私が購入したのはLサイズですが他にもM・Sが存在し、あとはカトラリー(スプーン、ナイフ、フォーク)とディッシュ(MとS)があります。カトラリーはコンビニとかでもらいがちなプラスチック素材のような見た目で、ディッシュはもちろん紙皿をモチーフにしています。是非全種類そろえて食事に使いたいと思うようなデザインです。

 

とはいうものの、現時点では食器のセットがあったところで使用する機会もないので、他のモノは購入せず、一番利用機会が多く、ずっとほしかったカップのみ購入しました。

 

 

私が一番好きなデザイナーはEileen grayで、彼女のフロアランプを所有していますが、いつかはかの有名なサイドテーブルも欲しいと思っています。そんなことはどうでもいいですが、アールデコ、モダンデザイン、機能性がキーワードでしょうか。そういった無駄をそぎ落としたようなデザインが好みで、あとはなんとなくナンセンスなアプローチ(今回のマークニューソンのような、本来安価にみられているものの再現を全力で行う)ようなプロダクトも好みです。

 

 

 

マークニューソンのこのプロダクトは、かつてウォーホルが行ったBurillo Boxの制作に通ずるものがあると思います。大量生産品を敢えて模倣し、デザインとは何かを再度考えさせる。デュシャンやウォーホルが行ったことは問題提起に過ぎないかもしれませんが、それまで考えられてきたartやdesignというものが本当に考えられてきた通りのモノなのか、artを美術という殻から解き放ち、改めて定義を行おうとしたその姿勢は、今でも多くの現代芸術化に引き継がれています。

 

私たちは違和感のない現実に惹かれがちです。本来、生物的には違和感なく通常通りである生活にこそ安心を感じるのでしょう。しかし、人間の思考のほとんどは違和感から生まれます。何かと何かの差異を見つけることにより、新たな思考に至りさらに細分化した物事の定義や規則を導き出す。私達人類が積み重ねてきた伝統はみな差異から生まれたといって過言ではないでしょう。デカルトの思考法ですね。

マークニューソンのカップは現代のブリロの箱であり、ウォーホルの二番煎じ、いやもう何番煎じかもわかりません。しかしながら、その様なコンセプトを持ちながらも日常生活に溶け込み、利用することができるという点は、また違ったアプローチであるといって良いでしょう。

 

artを"美術"から解き放ち、日常に開放した先人に続くこのプロダクトデザイン。ぜひともイデーに立ち寄った際には一度手に取り、その質感を確かめ、見た目との違和感を楽しんでみてください。

きっと気に入り、あなたの家の一員になるかと思います。

 

 

オンラインでも購入できるので、少しのぞいてみてください。

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ideeオンラインショップ

www.idee-online.com

 

 

810s Malke購入

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moonstar/810s/malke

ついに810sの靴を購入。

 

購入モデルはゴム長靴をモチーフにしたマルケ。

もともとレインブーツとしてZARAのサイドゴアを愛用していたんんですが、1年くらいで駄目になってしまったので、新たな雨靴として購入しました。

 

シンプルなデザインで、足首のストラップとその下のレタリングがアクセントとなっていて素敵。作りも申し分なく、6,000円程度で購入できる靴にしては十二分によくできていると思います。

さて、moonstarですが、正直あまり詳しくもありません。革靴畑の人間なので、日本のシューズメーカーと言えば、リーガルなどのレザーシューズ系がメインになってしまい、スニーカー等カジュアル靴にはどうも疎いです。

 

ちょっと話がづれますが、私のお気に入りのスニーカーにASAHI trainerがあります。monnstar の810s はアサヒシューズのASHAHI shoes と同じようなものだと勝手に考えていますが、どうでしょう。

 

810sはmoonstarの中でもおしゃれライン。

日々にちょうどいいフットウェア
プロユースから、デイリーユースへ。810s(エイトテンス)は専門分野で培った靴作りのノウハウを、
日常の道具として提案するプロダクトラインです。

MOONSTAR 810s EC STORE / TOPページ

 

というコンセプトの通り、ちょっと気の利いたデザインのカジュアルシューズを10種類程度販売しています。しかも値段が非常にお手頃でどれも7,000円未満。実物を見ていない商品が多すぎるので、プロダクト全体に対する評価は言えませんが、少なくとも写真で見る限りはどれも手にとってみたいと思うようなものばかりです。

とはいうものの、正直写真がうますぎてなんとも言えない。商品単体の写真はともかくとして、モデルさんと写っている写真はどれもデキが良すぎる。ガチガチのファッショナブルをぶつけに来ているので、購入の参考になるかと言われたらならないかも。着こなし次第で安く見えうる(実際安いのだけど)ものもありそうなので、お店が近くにあるなら実物見てもらいたいですね。

 

ちなみに先程ちょっと出したASAHI shoes は上履きとかで有名なアサヒシューズのおしゃれラインです。こちらも10点程度のカジュアルシューズを販売しておりまして、そのデザイン、クオリティには感服いたします。

ASAHI

おそらくコンセプトはmonnstarもアサヒシューズも同じで、自社の培ってきた技術を活かしつつ、これまであまりアプローチできていなかったファッションへ手を伸ばすといった感じでしょうか。ASAHI shoesは20,000円程度のお値段するので、810sと比べると手を出しづらいですが、スニカーマニア的には面白いお話もあるので是非こちらも見ていただけれたらと思っています。

閑話休題

 

とにかく、私としては日本で有名な靴メーカーのおしゃれラインを代表しASAHI shoesに加えてようやく810sを手に入れることができて満足です。

 

購入はグレーカラー, 25.0です。新品はちょっとゴムっぽい匂いがしますが、気になるのはそれくらい。あとは公式写真のイメージ(重言)どおり。前から見るとちょっと野暮ったい太さ、足を入れると思いの外ヒールが高い気がしますが、別に気になるってほどではありません。810s自体非常に安く、良い靴ばかりなのでついつい揃えてしまっても安価で済むのは嬉しい。これからも気になる靴があればほしいなと思ってます。

Number Four or Five / No Buses 和訳

久しぶりのNo Buses

Number For or Fiveは青春っぽい感じが大好きなのだけれど、たどる糸が細いというか、No Buses全般そうですが歌詞が短いのでストーリーを補わなければ訳しづらいんですよね。

 

 

No Buses Number Four or Five 歌詞 - Lyrical Nonsense【歌詞リリ】

 

以下和訳

 

 

学校では一番だったのに

僕の世界に忍び込んでくる足音

"いいヤツ"に全部盗られてしまった

けど、本当のあいつは悪いヤツなんだ ※1

嘘だって吐くし

知りたくないけれど 

恥ずかしがり屋な僕は女の子と上手く喋れなくて

好きって言うのはどんな気持ちなんだろうな

 

彼と僕の距離を甚く感じる

近づくことはあるのかな

いや、そんなことありえないか

僕とみんなの間にある違いを隠してみるけれど

意味なんてないのにね

 

どうせみんな死んでしまうんだ

 

 

※1 He's so bad I know なので単に「彼はひどく悪いヤツだって、僕知っているんだ」という感じです。ただ、私の解釈としては、"主人公から見て"彼は嫌なヤツだけれど、それは"学校で一番"を取られてしまった主人公にとってだけであり、ひがみとして「本当のあいつは嫌なヤツ」というセリフを言っているのだと思っています。

 

 

以上

 

 

個人的解釈ですが、"学校で一番(勉強かな?)の主人公"が転校生か何やらにその地位を奪われてしまって、ひがんでいるっていうのをイメージ。

主人公にとっては"彼"は嫌なヤツなんだけれど、あくまで僻みにしか過ぎなくて本当に悪いヤツってわけじゃなさそう。

主人公は女慣れしていないシャイボーイなので女子と上手く話せないけれど、"彼"はきっとそういうのも得意で主人公からするとそこも気に食わない。

きっと彼にはいろんないい話とか噂があるけど、"本当のことを全部知ってしまう"のは怖いから「知りたくないけど」っていうセリフ。

 

彼みたいになりたい「近づくことはあるのかな」のセリフがあるけど、自己解決的に「そんなことあるわけないのか」と発言。

それに彼以外のみんなとも、ちょっとぎくしゃくしちゃってるけどどうしようかな。

って言うのがこの曲の解釈です。

合ってるかどうかは知らないので皆さんもじっくり歌詞を読んでみてください。

ちなみにタイトルの Number Four or Five ですが、これは主人公への皮肉ですかね。主人公は一番だと思っていますが、ほんとは4位か5位っていう皮肉だと勝手に思っています。

 

 

私には嫌いな種類の人間がいて、それはまじめが取り柄な人間です。

彼らはまじめというものを信奉しています。それは別にいいのですが、そんなもの単なる宗教に過ぎないのです。信じれば救われる、ナニカ正しい行いをすればナニカ良いことが待ち受けているだなんて考えはある種宗教で、信奉というほかありません。

同じ宗教者どうしで相互補助を行う文には構いませんし、その信仰を広める活動をしてくれても構いません。しかしながら、よその宗教者や無宗教者にまで行いを矯正することは認められないのです。

 

私は現在大学生ですが、大学なんてところは、まじめな人間が報われる場所ではありません。勉強ができる人間が報われるし、研究ができる人間が報われる、あるいは運のいいヤツが報われるだけです。もちろん、まじめでいることは、前2つの要素に良い影響をもたらすことは言うまでもないでしょう。しかし、まじめなんてものは一側面であり、それ単体で評価されるものではなく、結局は結果が必要なのがこの世の中です。

 

思うに、このNumber For or Fiveのヒーローは"まじめ"な青年で、そのまじめに囚われているのでしょう。自分からはまじめに見えない人に対して嫉妬に近い感覚を持っている。そしてなんとなく、そのまじめに囚われた自分自身に疑問を感じているけれど...という雰囲気を見せて終わっています。

この一部分が、社会に進んでいく青年像を見せられているようで、毎度のことながら、ティーンネイジの終わりを感じるのです。